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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第185回 スティング 2019/11
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 閑静な住宅街の中に前川寅治さん(80歳)宅があります。
 晴れの朝、そちらを訪ねようとケアマネージャーの糸山英彰さん(40歳)が自転車を走らせています。角を曲がると、前川さん宅の門前に救急車が到着したのが見え、糸山さんはドキリとしてペダルを漕ぐのを早めます。

 平屋の大きなお宅に、夫婦二人で暮らしている前川寅治さんは、脳梗塞による左半身マヒがあり、リハビリがなかなか進まないものの、妻の友枝さん(78歳)の介護を受けながら、自宅で穏やかな療養生活を送っていました。
 ところが最近、認知症の進行とともに友枝さんへの暴言・暴力がはじまり、寅治さんの担当ケアマネである糸山さんはケアプランの調整にとりかかったところでした。
 そんな中、寅治さんの妻の友枝さんから糸山さんに電話があったのです。昨夜おそくに。

「スティングなんですよ。つらいです。どうにかなってしまいそうです」
 友枝さんはいきなりそう言いました。
「は?」
「糸山さんのアドバイスで、三日前に夫のところに置いたセンサーの音楽がね、映画のスティングのなんですよ。それがね、なつかしすぎて、そしてつらいんです」
「ああ、アラームのメロディがスティングなんですね」
「そうなんです。あの映画は、私たちが40を超えたくらいのころでしょうか、テレビのロードショーで放送されて、大好きになって、その後ビデオを買って二人で何度も見ました。話の筋がわかってても楽しめたんです。新しいテレビを買ったらビデオが再生できないやつで、見れなくなりましたが」
 映画スティングは、1973年にアメリカで公開された世界的な名作です。糸山さんも大好きな作品。その映画の音楽も有名で、三日前に寅治さんのベッドサイドに設置した人感センサーのアラームのメロディがスティングだったようでした。友枝さんが続けました。
「優しくて頼もしかった夫が、いま、ひどいことを言ったり、食事をひっくり返したりするようになってしまって…。病気だとわかっていても、スティングのあの音楽がなるたび、なんでこうなってしまったんだろうって、悲しくなってきて、今日などは何度も鳴って、まいってしまいました」

 前川さん宅は、中庭を囲む回廊があり、各室がロの字に配置されています。寅治さんの部屋は玄関から一番遠い位置にあり、台所や居間は玄関のそばにあります。
 寅治さんは暴言を吐くようになるとともに、自身が半身マヒであることを忘れてしまうことが多くなり、立ち上がり、歩いて室外に出ようとして、一、二歩歩いたところで転倒するということが二回ほどあり、友枝さんはなるべく寅治さんのベッドサイドにいるようにしていました。しかしそうすると家事ができず、さらに友枝さんの帽子制作の仕事(居間のとなりに作業部屋)にも取り組めなくなっていきました。見守りやすいように寅治さんの居室を居間の近くに移動させることも検討されましたが、彼が混乱することが予想され、実行されませんでした。
この状況によって、どんどんストレスが増して行く彼女に、糸山さんが人感センサーの使用を提案しました。寅治さんが立ったのを察知すると居間に置いた受信機がメロディを鳴らすようにすることを。友枝さんは人に頼んですぐに購入し、リハビリで訪れた理学療法士に設置してもらいました。
 糸山さんは電話口で、別のメロディかブザー音などに切り替える方法を説明しましたが、友枝さんはスイッチをオフにすることしかわからないという返答で、朝になったら、様子を見がてら訪問して糸山さんがメロディを切り替える操作をする、と約束したのでした。
 糸山さんは自転車を漕ぎながら考えます。
<スティングのメロディがつらくて、スイッチをオフにしているとき、寅治さんが転倒して怪我をしてしまったのだろうか。あるいは新たな脳梗塞を発症したとか…>

 前川さん宅に到着した糸山さんは目を丸くします。
 廊下に友枝さんが横たわり、救急隊員が彼女の血圧を測りながら問診しています。寅治さんはというと、居間のソファに深々と座り、澄ましたような表情をしています。
 友枝さんの話から経緯がわかりました。
 友枝さんがトイレに入っていると、少し離れた居間でスティングのメロディが鳴りだしたのが遠く聞こえてきて、あわててトイレから出て寅治さんの部屋に向かおうとしたら足を滑らせて転んで腰を打ち、その痛みで起き上がれなくなってしまったと言います。すると、居間を経由してトイレ前まで車椅子に乗ってやってきた寅治さんは、友枝さんが仰向けに倒れているのを目にして驚き、すぐさま首からぶらさげていた携帯電話で119番に電話したのだと言います。
 結局、友枝さんはタクシーで近医を受診することになり、救急隊は帰っていきました。
 寅治さんをベッドまでお連れしたことを、居間のソファにかけて休んでいる友枝さんに伝えた糸山さんに、彼女は微笑んで言います。
「糸山さん、いろいろ、ありがとうございます。センサーの音楽、切り替えていただかなくていいです。夫が、倒れている私のところにやってきたとき、前のような優しい表情になってて、<友ちゃん、大丈夫か>って言ったんです。いまみたいになる前は、私、夫にそう呼ばれていたんです。
<痛くて、起きられない>って言ったら、<そうか、うん、いま救急車呼ぶからな>って。<呼ばなくていいよ>って言っても<いいや、呼んだほうがいいって>って。そのことには困ったんですが、完全に前の夫に戻ってる感じで、なんだか嬉しくて。
 で、救急隊の方に<奥様、大けがではないようですよ、大丈夫>と言われて夫はすごく安心した様子になって、で、スティングのメロディを鼻歌で歌い出して、そうか、そのメロディを久しぶりに聴いて、なにかのスイッチが入ったんだと思って。よく転倒もせずにトイレ前までやってきたなと不思議だったんですが、運よくバランス崩さずに部屋から廊下に出られたら、あのメロディが居間のほうから聞こえてきて、そして我に返って半身マヒのことも思い出して傍に置いてあった車椅子を使ったのじゃないかと思うんです。だからスティングの曲でよかったんです」
 その後、駆け付けた息子さんとともに近医を受診したところ、友枝さんは腰部の軽い打撲で済んだことが確認できたとのことです。

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