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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第188回 親子でナース 2020/2
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 深夜の個室病室。
 蟹江多恵子さん(61歳)が仰臥位で寝ています。
 浅い呼吸を繰り返す彼女の顔を、傍らに座る彼女の娘・蟹江めぐみさん(30歳)がじっと見つめています。
多恵子さんは術後肺炎の治療として新たな抗生物質の点滴を受けているところで、今回の薬で熱が下がらない場合、全身状態から考えて万が一のこともあり得ることがわかっているため、娘のめぐみさんは祈るような思いでベッドサイドにいるのです。
<喧嘩したままなんだからさ、絶対に大丈夫だよね。そうでしょ>
 めぐみさんが多恵子さんに心の中で声をかけます。
 この親子は、いつも喧嘩ばかりしているのですが、いつだったか、仲直りしたときに、二人して「遺されたほうはグリーフワークがスムーズじゃなくなるからね。喧嘩状態のまま、どちらかが死んでしまうってことだけは絶対にやめよう」と固く約束したのです。
 二人とも看護師。二人とも独身。ずっと二人で暮らしてきました。
<それにしても。どうしてまた。よりによってこんなタイミングでこんなことになっちゃうんだろうねえ>
 多恵子さんは、看護師になってはじめて就職した病院に勤めつづけ定年を迎えました。あと数年働ける再雇用の希望も出せたのですが、「少しゆっくりしたあと、なにか好きなことをしたい」と言って退職しました。そして、ゆっくりする前に健康チェックをしておこうと、退職した翌日に人間ドックを受けたところ、がんがみつかり手術をすることになったのです。
<退職して仕事から解放されたと思ったら、闘病っていう大仕事が待ってたなんてさ、笑っちゃうよ。まだ、退職してから一日もゆっくりしてないんだからさ。ぜったいだめだよ。くしゃみ戦争は終わってないんだし>
 二人は、くしゃみ戦争と名付けた喧嘩を、どちらかが蒸し返しては繰り返しており、まだ決着がついていません。
 
 くしゃみ戦争が勃発したのは、高校三年生になっためぐみさんが多恵子さんに進路について話したときのことでした。
「看護学校に進学するって、なんで私への相談もなしに決めちゃったの?」
 多恵子さんは目を吊り上げて言いました。
「いいじゃない。それと、母さんのマネをして選んだんじゃないからね!」
 看護師になるというと反対するかもしれないと思っていためぐみさんはすぐに言い返しました。
 すると多恵子さんはさらに目を吊り上げて言ったのです。
「そんなことを言ってるんじゃないの。なんで看護大学ではなく看護学校と決めちゃってるのかってこと。お金がかからないほう、早く就職できるほう、うちは母子家庭で、母親の看護師の稼ぎだけで暮らしているから、そんなにお金ないから、それがいいって勝手に決めちゃったんでしょ! 私を見くびらないでよ!」
 母親が意外な点で怒っていたことを知り、あれこれ、看護師を選んだ理由を並べて言いかえしてやろうと思っていためぐみさんは拍子抜けしてしまい、黙ってしまいました。
 そんなめぐみさんをちらと見ると多恵子さんは、声を低めて言ったのです。
「勝手にすればいいよ。まあ、そもそも、看護師という仕事を、舐めてかかってたとしたら、資格とらないうちに悲鳴あげて挫折して、みたいなこともあるかもね」
「なんて失礼なことを! 私のことをそんなアマちゃんだと思ってんの? ばかにしないでよ!」
 かちんときためぐみさんは、両拳をにぎって声をあげました。
「じゃあ、めぐみ、たとえば、くしゃみを自分で止めることができる? 母さんはね、看護師になってからというもの、感染対策の観点から、仕事中に一度もくしゃみをしたことがないわよ。出そうになったら止めてるの。めぐみには、くしゃみを止めることなんてできないでしょ」
「できるに決まってるでしょ!」
 そう言って多恵子さんから顔を背けためぐみさんは、実に間が悪くくしゃみが出そうになり、それを止めることができずくしゃみをしたのです。
「ほらね」
 多恵子さんにそう言われて、くやしくてたまらなくなっためぐみさんは、大事にしていた豚の貯金箱をベランダに持って行って叩き付けたのでした。

 その三年後。
 看護学校の三年になっていためぐみさんは、ネットでたまたま、出そうなくしゃみを止める行為がその人の体にどのように悪いかを解説した記事を見つけ、別件で喧嘩していたその夜、多恵子さんを攻撃しました。
「くしゃみは異物反射で、体の自然な反応を止めるわけで、くしゃみを止めた人の体に悪影響があるのは明らかで、風邪やアレルギーが悪化して中耳や気管に入りこんで感染症を起こしたりする可能性があるわけでしょ。それと、骨折やぎっくり腰の原因になったり、鼓膜を損傷したりすることだってあるわけでしょ。看護師なのに、よく、そんな健康をそこなう行為を自慢げにやってきたよね! もしかして、くしゃみを止めたときのリスクについて考えたことなかったとか?」
「リスクを知らないわけないでしょ! ちゃんとわかった上で、医療者としてリスクを引き受けてくしゃみを止めてるのよ。どうせ、ネットでそういう記事でも読んで、しめたと思って私に言ってきたんでしょ」
 その通りだったため一瞬ひるんだめぐみさんですが怒鳴りかえしました。
「何言ってんのよ! 私が言いたいのはね、母さんの身体を心配する身にもなってよってことを言いたいの!」
 すると多恵子さんは口をとがらせて黙り込み、その場はめぐみさんの勝ち、の雰囲気なりました。
 以来、くしゃみを止める件は、どちらかが思い出しては蒸しかえし、ああでもないこうでもないと喧嘩をするようになったのです。
 
 めぐみさんがひきつづき、多恵子さんに心の中で話しかけています。
<もしかして、手術の前日に、くしゃみ止めの件で喧嘩ふっかけてきたのは、わざとだった? なんとなく嫌な予感がしたの? 約束しててよかったよ、私たちは、ぜったいに喧嘩したままの状態では死にません、って>
 めぐみさんは夜が明けるまで多恵子さんに心の声で話しかけつづけたそうです。

 そして、その翌日、多恵子さんの熱はさがり、肺炎は快方に向かったそうです。

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