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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第192回 チョコ 2020/6
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 おそい午後。
 訪問先の清塚智司さん(93歳)宅の廊下で、看護師の宍戸美和さん(41歳)が携帯電話を切ったあと、<これって、私の仕事?>と思いますが、急いでそれを打消します。
 そして居間の中にいる清塚夫妻に伝えます。
「綾部さんからで、チョコがもうすぐ到着するようです」
「わかりました。よろしくお願いします」
 チョコとは、犬の名前です。10歳になるメスのゴールデン・レトリバー。がんを患っており衰弱しています。
 このチョコは、以前、清塚家で飼われていました。清塚家の娘さんが飼って間もなく、急に海外に転勤となり、実家に託したのです。
 そしてチョコが一歳になるころ、清塚家では別の犬の里親になることになりました。事情があって断れない状況でした。
 清塚夫妻の二人では犬二匹を飼うのは難しく困惑していたところに、夫人のママ友の綾部千代子さんがチョコを引き取りたいと言い出し、その運びとなったのでした。可愛がっていたチョコを手放すことは清塚夫妻にとっては、たいへん辛いことでしたが。
 その後、一キロほど離れた清塚家と綾部家は、チョコをめぐってのトラブルが生じ、犬猿の仲となっていきました。まだチョコが綾部家に行って間もないころ、チョコがちょっとした隙に綾部家を出て清塚家に戻ってきてしまったことがあり、その際に清塚家は一週間ほど綾部家にチョコを返さなかったことが、仲違いの発端となりました。綾部家に慣れるためにはよくないことだと綾部家は憤慨。また、清塚家では、綾部家がチョコの名前をモモに変えてしまったことに憤慨。ほかにもいろいろ、双方、腹が立つことがあったようです。ちなみに、清塚家が里親となり引き取った犬は、一年ほどで亡くなったそうです。
 時が過ぎ、清塚智司さんが病院から退院し、自宅療養をはじめた際に、宍戸美和さんが訪問看護を担当するようになりました。最期は家で、を本人が強く希望し、夫人もその構えです。
 そして清塚智司さんは目下じわじわと衰弱している状況なのですが、どうしても一つだけ遂げたいこととして「ひとめでいいからチョコに会いたい」と話すようになりました。
 それで宍戸さんは清塚夫人に綾部家と話をつけてほしいと頼まれました。宍戸さんが、綾部さん宅にも訪問していることをどちらからか聞きつけたようでした。
「夫の切なる願いです。きくところによるとチョコも、かなり弱っているみたいですよね。ですから、早めに。お願いです!」
両家が直接やりとりするのがいちばんだと宍戸さんは思いましたが、どうやら、両家の関係は相当こじれているようで、それは難しい様子でした。
また、訪問看護師として、清塚智司さんの病状から、意識がはっきりしているのはいまのうちかもしれない、という感触があり、唯一の願いをいまのうちにかなえてあげたいという思いがあり、両家のあいだに入ることを承諾したのです。
そして調整した結果、両家とも顔は合わせたくないとのことで、約束した時刻に綾部さんがチョコを車で清塚さん宅の門前まで運んできて、そこからは宍戸さんがチョコを玄関まで運ぶ。
そして居間から清塚さんがチョコを呼ぶ。呼ばれたら行くのか、呼ばれても動かないのか、清塚夫妻に会うか会わないかを多少は歩けるチョコの意志に委ねる。清塚夫妻は居間にいて、玄関には決して出てきてはいけない。ここは綾部家がどうしてもゆずらない点でした。清塚家はそれを承諾しました。
宍戸さんが、清塚家の玄関に面している廊下に、毛布にくるんだチョコをそっと置きます。そして夫妻に声をかけます。
「チョコですよー」
すると、廊下を三メートルほど進んだところの、障子を開けた居間にいる夫妻の声が聞こえます。
「チョコ」「こっちだよ」「チョコー」「チョコー」
しかし、チョコは毛布の上に横たわったまま動きません。もう、忘れてしまったのか。あるいは忘れてはいないけれど、動くのは面倒なのか。宍戸さんは傍らでチョコの眼を閉じたままの横顔を見ながら思います。
と、チョコが足を動かし、ゆっくりと起き上がります。そして、一歩一歩、よたよたしながら、居間のほうへ歩き出します。宍戸さんはそれについてゆきます。
チョコが居間の入口に立ち、室内に顔を向け、「お久しぶりです」とでも言っているかのように間を置くと、室内に進みます。そして、垂れた尻尾をひと振り。夫人に背中や頭を触られながら、布団上に仰向けになっている智司さんの枕元に行き、智司さんの肩に顔を乗せ、腹ばいになります。
「チョコ。よくきてくれたなあ。覚えてくれてたんだなあ。ありがとなあ」
言いながら智司さんは、チョコの頭に手を乗せ、涙を流しはじめ、続けます。
「飼い主の勝手で、あちこちにやらされてな、ほんとうに悪かった。死ぬ前に、ちゃんとチョコに謝りたくてな。ほんとにごめんな」
 チョコは撫でられながら智司さんを見ています。
「ほんとうに、チョコごめんね」と夫人がチョコの背をなでながら、
「ここはチョコの実家なんだから、もっと頻繁に帰ってこれるといいんだけどね。そうだ、このままうちにいてもいいんだから」
というと、智司さんが眉をひそめて、首を横にふり、
「そんなこと言っちゃだめだ。そう思ってても口にしちゃいけないんだ。でも、でも、チョコが望むなら、そうしてやりたいけどなあ」
 体調管理のため、面会の際に飲み物も食べ物も与えないでほしい、と綾部家からの伝言があり、清塚夫妻は、とにかくチョコを撫でながら話しかけます。チョコという名は、毛の色がチョコモナカのモナカの色に似ていたから付いたのだった、とか、いろいろ。
 五分くらい経ったでしょうか。チョコが、「じゃ、そろそろ」とでも言うような雰囲気で足を立ててゆっくりと起き上がります。
「チョコ、チョコ、まだいいじゃないか」と智司さんはうろたえた様子で言うと、「そうだ、あれ、とって」と夫人に言って、抽斗からピンク色のゴム手袋をとってもらい、左手にそれをはめ、
「チョコ、ここにいたころ、これをはめた手に甘噛みするの、大好きだったよな、ほら」
と、背を向けて行こうとするチョコに言います。
 するとチョコはゆっくり振り向き、顔を近づけて、そのゴム手のにおいをかぎます。
「なあ、よかったら,噛んでくれ。甘噛みじゃなくてもいいぞ、思いっきりでもいい、ほら」
 チョコはしばらくゴム手のにおいを嗅いだあと、その指先をぱくっと咥えると離れ、身体を出口に向け、尻尾を一回振ってゆっくり出て行きました。噛むほどの力はなかったのかもしれません。

 チョコは、玄関の毛布の上にこてんと横になると、「じゃ、車に戻して」といわんばかりに宍戸さんの眼を見たそうです。

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