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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第197回 新卒訪問看護師 2020/11
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 土曜日の夕方。
 ショッピングモールの一角にある宝くじ売り場に、5名のお客が距離をとって並んでいます。
 その三番目に並んでいる訪問看護師の桑名美喜さん(25歳)が、にわかに緊張の面持ちになります。
 売り場窓口の50代くらいの女性とやりとりをしている客の男性は、桑名さんが週イチで訪問している桐田政男さん(82歳)だとわかった上に、彼女のうしろのうしろに並んだ女性が、職場の先輩看護師の三益みゆきさん(32歳)だとわかったからです。三益さんは職場でいちばん苦手な人です。
3年前の春、桑名さんと三益さんは、訪問看護ステーション・ナイスに就職しました。桑名さんは大学出立ての新卒訪問看護師で、三益さんは病院の救急外来を7年経験していました。就職当初から三益さんは桑名さんに対して冷たい態度で接し、現在もそれがつづいています。
<三益さんが、前の前にいる私に気づきませんように…>
 胸のうちでそうつぶやいた桑名さんは、これまでに三益さんに言われた言葉を思い出します。
 桑名さんがはじめて訪問看護を担当した方の緊急の対応が求められた際に、発熱・発汗への対処として清拭・更衣・クーリングを行ったまではよかったのですが、感染症や脱水を疑っての行動(先輩への報告)がすぐにできなかったことで、採血検査や診断治療が遅れたことがわかったときに三益さんは次のように言いました。
「新卒訪問看護師ウエルカムの風潮だけど、これだから私は反対なんです」
 また、桑名さんがある医師から指示を受けた際に、彼女はわからなくて咄嗟に医師に聞き返したことがありました。それを聞きつけた三益さんがそばにきて、吐きすてるように言ったのです。
「臨床で常識の略語」
 ほかにもいろいろある上に、舌打ちやこれ見よがしのため息は数知れずです。
 桑名さんは、そんな三益さんに対して反発心はありません。三益さんは間違っていないと思っているからです。
 だからこそ三益さんに何か言われるとぐさりと胸の刺さるわけで、できれば三益さんと顔を合わせたくないのです。
<ささっと宝くじを買って、三益さんには気づかなかったふりをして、ここをあとにしよう>
 そう思いながら前を向いたまま、並んでいました。
 しかし前の前に桐田さんがいたわけです。しかも、彼について心配な点が見えました。桐田さんは、毎週日曜日に娘さんに付き添われて宝くじを買いに来ています。宝くじの購入は桐田さんの大のたのしみで<これからもずっと宝くじを自分の足で買いに来られるように>がリハビリの目標になっているほどです。
きょうは土曜日でしかも娘さんがそばにいません。現在の桐田さんは、降圧剤を服用しているものの、血圧がコントロールしきれていない面があります。さらに狭心症の発作が起こるがあり、常に舌下錠を携帯しています。そんな状態のため、外出時にはご家族がいつも同行しているのです。娘さんは、どこか別の売り場にでも行っているのでしょうか。
「あらー、この回の末尾の当たり番号はね、5なんですよ。間違って6を持ってきちゃったんですね」
 やや耳が遠くなっている桐田さんが聞き返したため、売り場窓口の女性は、大きな声で言いました。
 すると、桐田さんはしばし黙ったあと売り場の女性にたずねます。
「きょうは、いつもの人は?」
「きょうは、いつもの人は休みでね、ここの売り場のほかの人達も急には入れなくて、急遽、別の売り場の私が代役でね、入りました。とにかく、この回の当たり番号末尾は5ですから。間違えないで今度6のを持ってきてくださいね。あっ、でも、改装のため明日から一週間、ここは休みになりますから、一週間すぎてからにしてくださいね!」
 売り場の女性は、やや子どもに言い聞かせるような口調で言いました。
この女性は誤解している、と桑名さんは思いました。連番で10枚買ったうち、当たり券だけを、桐田さんは数字を間違えて持参した、と思いこんでいるのだな、と。しかし桐田さんは、いつも買うのは一枚だけで、その一枚を、あたりかはずれか機械で確認してほしくて持参しているのです。いつもの売り場の人であれば、それがわかったのでしょう。
桑名さんはそのことを窓口の女性に説明しに行こうかなとちらり考えますが、出過ぎの気がしましたし、その行動を見た三益さんになにか言われてしまう気もして、動けません。
と、売り場の女性が、並んでいる桑名さんたちのほうをちらりと見ます。うしろのお客を待たせたくないのでしょう。
「な、なんだよ。人をボケ老人扱いして‥」
 桐田さんの絞り出すような声がします。見ると両拳を握っています。
 桑名さんはさらに心配になります。この売り場が明日から一週間休みだと知って、桐田さんはあわてて自宅から徒歩10分の道のりをやってきたのかもしれません。その労作で心臓に負担がかかった上に、腹を立てて血圧に影響があったなら…と。そばに行き、様子を確認したいと思いますが、うしろに三益さんがいるため、動きたくはない。しかし、そんなことを言っていられないほど、桐田さんが心配になってきます。
 桑名さんは、意を決したようにふっと素早く息をひとつ吐くと、前に進んで、桐田さんの前にまわりこみ、彼の様子を確認します。桐田さんは顔をしかめ胸のあたりを押さえています。
「桐田さん! 訪問看護の桑名です。娘さんはご一緒じゃないんですか?」
 そう声をかけながら桑名さんは、三益さんにきりりとした眼差しを向けます。
「ト、トイレ行ってる」と桐田さん。
「三益さん、すみません! 私が訪問で担当している方です。首から下げているお守り袋のなかに、狭心症の胸痛発作時の舌下錠のニトロペンが入っています。私、トイレに行ったらしい娘さんを呼んできますので、お願いします!」
「わかった」
 と返しながら三益さんがしっかとうなずきました。

 桐田さんは間もなく舌下錠が効いて発作はおさまり、娘さんとともに帰宅したそうです。
 それを見届けると、桑名さんは意外にも三益さんに誘われて一緒に呑みに行き、以来、いままでの三益さんの冷たい態度は嘘のようになくなったといいます。呑みながら三益さんは、互いにちゃんと目を合わせて話したのは、桐田さんの対応で「お願いします!」「わかった」と言葉を交わしたときがはじめてかもしれないね、と話すと、クリティカルケア領域から未経験の訪問看護へと入ってきたことの緊張があり、堂々と新卒で訪問看護に入った桑名さんにコンプレックスがあったかも、と打ち明けてくれたそうです。

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