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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第198回 コロナ恋? 2020/12
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 午後。
 住宅型有料老人ホーム・フルーツの一室で、部屋主の竹野内八重さん(89歳)がソファに座り、施設側の三人と対面しています。みなマスクを着用しています。
「八重さんがですね、今回の悪い噂を流したと認めてくれて、それを訂正してくれないと、もしかして、フルーツを閉じなければならなくなるかもしれません」
 三人の真ん中に座る事務長の男性(62歳)が言いました。室内には重苦しい雰囲気が漂っています。
うつむいている八重さんは口を開きません。
ふわりとしたグレーの毛糸の帽子をかぶり、茶色系のタータンチェックの大判ストールを羽織った八重さんは、小柄でチャーミングな女性です。
「コロナ恋、という言葉。八重さんがはじめに発したと聞きましたが。そうなんですか?」
 フルーツの施設長で看護師の本田理恵さん(43歳)が、笑みを浮かべて穏やかに八重さんにたずねました。
 八重さんは、うつむいたまま返答しません。
 すると、施設側のもう一人の男性の介護主任の元木健介さん(41歳)が言います。
「わたしと本田は同僚というだけで、ほかには何もないのですから。それを八重さんの口からちゃんとみなさんに言っていただきたいんです。お願いです」
 八重さんは引き続き無言で、事務長が小さくため息をつきます。

 本田さんと元木さんが「コロナ恋で燃え上がっている」という噂が、目下、入居者間で広がっているのです。さらにこのほど、新型コロナウィルス感染症の全国的な再拡大によって面会制限を行ったところ、それに対する入居者の家族などからヒステリックな反応があり、同時にコロナ恋の噂についての攻撃がはじまっているのです。
<この、たいへんな時に、どうしてそんな浮ついたことができるんだ。面会制限という人権侵害をしておいて>
<そんなふしだらな管理者がいる施設になんて、大事な家族を預けられない>
<職員同士が廊下で抱き合うなんて、不謹慎すぎる。許せない!>
 などの声が、直接の電話やeメールで届いており、その都度、事実無根であると説明しています。
<ダブル不倫だそうですね、二人に思いっきり消毒液を吹きかけてやりたい>といったSNSへの書き込みもされはじめていることもわかってきました。早いうちにしっかり対処しないと、噂が暴走してしまう懸念が施設側に生じています。
 噂の基本のストーリーは次のとおりです。
<本田さんと元木さんは、コロナ感染予防の消毒を朝に夕に二人で仲良くやるようになり、そのうちべたべたするようになった。交際をはじめたらしい。コロナが引き寄せたコロナ恋だ>
 フルーツの入居者の七割を占める高齢女性の誰もが、介護主任の元木さんのファンなのです。それも関係してか、この噂は瞬く間に、それもいろんな尾ひれがついて広まりました。
やましいことがひとつもない本田さんと元木さんは、堂々とふるまっていますが、何人もの利用者が、本田さんを睨みつけたり、嫌味を言ったり、彼女が近づくとあからさまに逃げたり…。このままでは、施設長としての業務が遂行できないばかりか、施設の運営にも大きなマイナスになってしまう、と考えた本田さんは、昨日、ひとりひとりの部屋を訪ね、真剣に、噂が事実無根であることを述べてまわりました。
そして今日は、事務長と元木さんと三人で、噂の発信元らしい八重さんを訪ねたのです。

改めて、本田さんは八重さんに穏やかに語りかけます。
「八重さんは人格者です。みなが信頼しています。鳩問題のときも上手に解決してくださり、みんな感謝しています」
 鳩問題とは、コロナにより第一回目の面会制限をした際に、ある女性が寂しさからベランダで鳩に餌付けをしてしまい、そのうち鳩のフン害が生じてしまったのです。本田さんがつづけます。
「そんな八重さんですから、今回のことは、赴任してまだ一年にならない私に試練を与えてくださっているのではないでしょうか。
 今回の件、私が辞職することで終息させることができるのかもしれません。辞めるとしても、噂を流した真意を八重さんに伺いたいです」
 真剣さが伝わる口調でした。
じっとうつむいていた八重さんでしたが、辞職という言葉が出たあたりから、大事に至っていると感じたのか、両手をぐっと握り、さらに深くうつむいてしまいます。
 噂を流した、やむにやまれぬ事情があるのだろうと、本田さんは考えています。タイミングとして唐突な印象があることや、コロナ恋などと、より噂が拡大するようなキャッチーな言葉を用いたことに、噂を流す意図のようなものを感じたからです。
「八重さん、おしえてください! どうしてですか?」
 そう言った本田さんと他の二人が身を乗り出すと、八重さんの握った両拳がわずかに震えだします。
「責めているわけじゃないんです、ほんとうのことをおしえてほしいだけなんです」
 といって本田さんは八重さんの傍らに行きしゃがみこみ、彼女の肩の上に手を置きます。
 と、ノック音があり、元木さんがそちらに向かいドアを開けます。
「あっ、仙田さん! えっと、誰にご用事でしょうか。ここ、竹野内さんのお部屋ですけど」
 仙田太一さん(85歳)がするりと室内に入ってきます。と同時に八重さんが身を固くしたのを本田さんは手に感じます。
 仙田さんは八重さんに向かって、
「見つかったから。奥の奥に入りこんでただけだった。だから大丈夫だから」
と小声で言うと、ひらりと本田さんに向かってに土下座します。そして、本田さん、元木さん、事務長の順に顔を見たあと、
「私が悪いんです。申し訳ありません」
といって床に頭をつけます。すると八重さんは、咄嗟に両手で顔を覆い、背中を丸めました。

 恋に燃え上っているのはこちらの二人だったのでした。
 公共の場ではほとんど会話をしない意外な取り合わせでしたが、二年ほど前から心を交わしていたとのこと。交換日記で。
 その交換日記帳は、廊下の裏手にある掃除道具のロッカーの裏の隙間に置いて交互に取り出し、書きこんでいたそうですが、その日記帳が見当たらなくなったといいます。仙田さんが頭を下げたまま言います。
「八重さんは、私たち二人の関係が発覚することをおそれるあまり、みながほかのことに注意が向く騒ぎを作ろうとしたんだとおもいます。そのあいだに日記帳を探そうと考えて。
 それほどに彼女が発覚をおそれたのは、この関係をぜったいに秘密にしようと私が言ったからなんです。発覚したら終わりになってしまうと不安にさせたからなんです」
 

 その後、八重さんが噂を訂正し嘘をついたことを詫びると、次第に本田さんや施設への攻撃はなくなったとのことです。
 そして八重さんらカップルは、いままでどおり交換日記を続けているとのとこと。
  二人の関係は、本田さん、元木さん、事務長だけの胸にしまっておくことにしたそうです。

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