Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第201回 ギアチェンジ 2021/3
dotline

 よく晴れた日曜の午後。
 閑静な住宅街にある一軒家の居間に、田淵浩二さん(76歳)と彼の子供たち(長男、長女、次女)がいます。
 田淵浩二さんは腰椎圧迫骨折で二か月ほど入院し、今日の午前中に退院しました。日常生活動作にはまだ一部サポートが必要で、リハビリのほか降圧剤の内服や栄養の管理なども重要な状態です。
 税理士だった彼は、外ではそれなりに柔らかな受け応えをしていたようですが、家族の前では、基本的に気難しく威張っておりときに高圧的です。妻の早苗さん、つまりゆかりさんらの母は陽気であっけらかんとしたタイプのため、子どもらは父親との緊張関係を母親の存在で和らげながら育ちました。その早苗さんは3年前に他界。
 浩二さんと同居している長女のゆかりさん(47歳)は、病院を退職したばかりの看護師で、さしあたり彼の介護の中心的役割をしており、今後はタイミングを見て可能な形で復職する予定です。
 ゆかりさんの兄の悟さん(48歳)はフリーターをしながら音楽活動をしており、妹の理絵さん(45歳)は夫と子供とで隣町に住みパートタイムで働いています。
 明るい陽射しが届いている室内で、子どもたち三人は背中を丸めてこたつにあたり、コルセットをつけている浩二さんはリクライニングチェアに座ったまま、下腿だけこたつに入っています。
「お父さん、カーテン締めてさ、みんなでテレビ見よう!」
ゆかりさんが浩二さんに明るく声をかけます。
 すると兄の悟さんと妹の理絵さんは身を固くし、眼球だけ動かして浩二さんの反応を伺います。
「ねっ、いいでしょ、久しぶりに」
 ゆかりさんがふたたび声をかけます。
「う、うん」
 と、浩二さんがくぐもった声で返しながらわずかに首を縦に動かすと、ゆかりさんはにこりとして立ち上がりカーテンを閉めはじめます。悟さんと理絵さんは驚いた様子で顔を見合わせます。

 亡くなった早苗さんは、晴れた日曜の午後に居間のカーテンを閉めて室内を暗くし、みんなでテレビを見るのが大好きでした。それをするために二重カーテンの内側にしっかり遮光するタイプのものをつけたほどです。
 毎度早苗さんは、さきほどのゆかりさんのように、浩二さんに声をかけました。すると浩二さんはいつも、「くだらない」と言い捨てて目を閉じるのでした。
 また、早苗さんは、決まってテレビを見ながらアイスを食べようと言い出し、冷蔵庫からアイスバーを持ってきてみなで食べたのですが、そのときも浩二さんは早苗さんの声がけに「いらん!」と返し、あるときなどは「うるさい!」と言って手で払ったアイスバーが早苗さんの顔にあたったのでした。
 いつもそんなふうだった浩二さんが、首を縦に振ったために悟さんと理絵さんは目を丸くしたのです。

 浩二さんは、早苗さんが他界して以来、愛犬のダンとともに一人暮らしをしていました。そのダンが高齢で衰弱し歩かなくなった三か月前から、 犬の散歩という日課を失い、彼はサルコペニアとなり、骨折して入院。そのころにゆかりさんが同居するようになりました。
 ダンとの再会を目標にリハビリをがんばっていた彼でしたが、その後ダンが亡くなったと知らされるとリハビリに消極的になり、食事量が減少。気力がうせてしまったことに、周囲はもちろんのこと、本人も困惑しており、娘への接し方にも戸惑っているようにゆかり さんは感じました。
 そしてゆかりさんは、生前の早苗さんの言葉を思い出したのです。
「威張るには気力と体力が必要だから。お父さんだって、いつまでもは威張っていられないと思うから」

長年、老年看護に取り組んできはたゆかりさんは、
<父さんはいま、今後のADLや人生を左右する岐路に立っている。これからは威張ることで気力と体力をむだ使いしないようになってもらう。その変化がスムーズにすすむよう、会話や接し方で私がうながし てゆく>
と考えて父親に接しはじめたところ浩二さんは、徐々に穏やかな受け応えをするようになっていきました。
 きょうは、その変化を兄弟とともに確認する場面を持ちたいとゆかりさんは考えています。入院先の看護師やリハビリ関係の担当者などに何度もたずねて話を聞いたところ、浩二さんは、家族がカーテンを締めてみんなでテレビを見ていることが実は好きだったことを語っていたことがわかったのです。
 みんなで暗くした部屋でテレビをみたあと、懐中電灯宣言をしたものでした。懐中電灯で下から顔を照らしひとりずつ順番 に何かをひとこと言うことです。いつも、早苗さん、悟さん、ゆかりさん、理絵さんの順に行いました。ときどき早苗さんが浩二さんに懐中電灯を差 し向けましたが「くだらん」とそっぽを向くのでした。
 それをきょう、ゆかりさんはふたたび浩二さんに懐中電灯をさし向けてみようと思っているのです。
 はたして、浩二さんは懐中電灯をはじめて受け取りました。
懐中電灯を手に、浩二さんは心の中で早苗さんに話しかけます。
<やっとできたよ。ゆかりのほうからね、うながしてくれたんだ。君の言うとおりだな>
亡くなる少し前の早苗さんに浩二さんは言われたのです。
「約束してください。私がいなくなったら、ギアチェンジして、あなたの理想の父親像を演じつづけるのはやめてくださいね。じゃないと、子どもたちは寄りつかなくなってしまうわよ。子どもたちはね、あなたが嫌いなのではないのよ」
 しかし、浩二さんがそれをなかなか実行できないでいると、ほんとうに子供たちは家に寄りつかなくなってしまい、たまたまゆかりさんが離婚を機に戻ってきたのです。
 浩二さんは、懐中電灯で自身の顔を下から照らし言います。
「アイスバー、あるかな」
 すると、ゆかりさんがニコリとして頷き、悟さんと理絵さんも笑顔になりました。

 浩二さんは、ほんとうはゆかりさんに「ありがとう」と言いたかったものの、いまのところそこまでのギアチェンジではなかったようで、どうしても照れくさくて言えなかったようです。

ページの先頭へ戻る