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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第203回 最後の出勤日 2021/5
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 午前10時半すぎ。
 特別養護老人ホーム・二葉(によう)のナースステーションで、看護師の前島理沙さん(38歳)が記録をしています今日の彼女は8:00~17:00の早番勤務です。
そこに看護師の後藤さやかさん(39歳)が入ってきます。彼女は遅番(10:30~19:30)で出勤してきたばかりです。
 前島さんは、記録画面に顔を向けたまま後藤さんに挨拶がわりの小さな会釈をします。そして心の中でつぶやきます。
<同僚の退職。それは仕事の日常の一部。これまでに何度も経験してきたこと。友達関係の同僚でないかぎり、退職したその人と再会する可能性はゼロに近い。退職のその日だけセンチメンタルな気分になっても、いなくなった途端に、その人を忘れはじめるんだから。
 私はこの人にいまさら何かを言いたいのだろうか。いや、言うことは何もない。今日もいつもの仕事の一日が過ぎていくというだけ>
 今日は、後藤さやかさんの最後の出勤日。明日から数日間の有休消化をしたのちに退職です。
 前島さんは心の中でつづけます。
<私と後藤さんのように、ついに打ち解けないまま、どちらかが退職するなんてもよくあること。それでいいじゃないか。でも…>
 前島さんは、さきほどケアしてきた入所者の沖田千治さん(98歳)が見せた仕草を思い出します。誰かと誰かが手を取りあうように、自身の左手と右手を合わせて握ったのです。そして彼はぼそりと言いました。
「後藤さんとあなた、いいコンビだったね」
 彼は今日が後藤さんの最後の勤務だと誰かから聞いたようでした。

 彼がいうとおり、前島さんと後藤さんの合わせ技が功を奏するといったことが多く、たとえば沖田さんへの排便のうながしがそれをよくあらわしていました。
まず前島さんが、聴診や触診など沖田さんの腹部の観察と評価を行った後に腹部マッサージを実施する。そのあとに、後藤さんがさらなる腹部マッサージをすると自然排便が見られるのです。二人の順番を逆にすると効果がいまいちでした。
また、二人で実施法を確認しても何が違うのかわからず、沖田さんにたずねても効果をもたらす理由がわからなかったのですが、とにかくは二人が、前島さん、後藤さんの順に腹部マッサージを行なうと大きな効果が得られることがわかってきたのです。
 後藤さんが二葉に入職した2年前、シフトの関係で後藤さんと前島さんは、きちんと挨拶しあうタイミングを逃したまま数日が過ぎていました。
 そんなある日のこと。入所したばかりの沖田さんが、食事が済んだお膳を下げに行ったスタッフに「投げキッス」のような仕草をしたとのことで、スタッフ間の話題にのぼりました。環境が変化したため、高齢の彼の認知機能が低下しているのではないか、という意見が出ました。
 しかし前島さんはそうは考えず、沖田さんの生活歴などを見直した上で、次の食事の際に何気なく沖田さんの様子を観察したことで気づいた点があり、直接、沖田さんにたずねてみました。彼は口数がすくなく、とっつきにくい雰囲気を持っていましたが、受け答えはたいへんしっかりしていると前島さんは感じていました。
「もしかして、さきほど手を動かしていらしたのは、煙草をお吸いになっている動作ですか?」
「よくわかったね。食後にあれをやらないと落ち着かなくて」
 前島さんがこの結果を伝えると、スタッフはなるほどと納得したのでした。
 その翌日のことです。誰かが灰皿のようなミニ皿を沖田さんのベッドサイドに置き、沖田さんはとてもおいしそうにその灰皿に灰を落とす仕草もしたのです。
 灰皿を置いたのは後藤さんだったことがあとでわかりました。
 その後、沖田さんが、右手を、琴でも弾いているかのように動かすようになり、それも、エア喫煙のときと同様に、前島さんが何の仕草なのか気づきました。理容師だった沖田さんは、ハサミを手にして髪を切る仕草をしていたのです。その数日後に沖田さんは「実際に髪を切って見たい」と言い出し、ご本人が秘かに持参していた仕事用のハサミをバッグから持ち出したのでした。
 前島さんは、沖田さんが施設内にハサミを持ち込んだ件を上にかけあって特別に持ち込み許可を受け、さらに面会制限の状況下でもカット行為が可能な方法を検討し、さしあたりヘアカットの練習用の頭だけの人形の差し入れの方向など、家族とこまかに調整していました。
 そんななか、後藤さんが勤務の休憩時間に自身の髪を沖田さんにカットしてもらったのでした。この大胆な行動の直後には、一部から非難の声があがりましたが、沖田さん本人や彼のご家族もたいへん喜んだこともあり、後藤さんはみなに一目置かれる存在となりました。
 煙草の灰皿の件といい、カットの件といい、あとからおいしい部分を持っていってしまう感のある後藤さんのやり方に前島さんは自身とのタイプの違いを感じたのでした。気が合わない気がして、会話は必要なことのみとし、冗談を言ったり笑いかけたりもしませんでした。後藤さんも映し鏡のように前島さんと距離をとり、二人は結局打ち解けないままこれまで過ごしてきました。
 そして今日を迎えたのです。

 沖田さんが握手するようなしぐさを彼女に見せたのは、後藤さんと仲良くしなさいというメッセージだと前島さんは思いました。仲が悪いわけではないけれど、もう少し、和やかに言葉を交わしてもいいかもしれない、最後の日なのだし、という気持ちになってきます。
しかし彼女は、記録に目を通している後藤さんの背にちらりと目を向けてぶっきらぼうに言いました。
「沖田さんの腹部マッサージを、いつものようにお願いします。腹部を含め、沖田さんの今日の状態は、記録をごらんください」
「わかりました」
 業務に追われているうちに時が過ぎ、もうじき前島さんの勤務終了時間です。
<たまたま同じ職場で同じ時期に勤務していたというだけの関係だもの、別に、いまさら歩み寄らなくてもいいでしょ>
 そう思いながら職員用トイレに入った前島さんは、シンクの前で手を拭いている後藤さんとばったり出くわします。
 二人はなんとなく目を合わせ、いつのまに握手をしていました。
沖田さんは後藤さんにも、二人はいいコンビだったと言い、握手の仕草をしてみせていたことがあとでわかったそうです。

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