Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第205回 雨の夜勤明け 2021/7
dotline

 午前10時。
 看護師の嵯峨みゆきさん(27歳)は、指圧やマッサージでボディケアを行う店内の一角で、濡れた洋服からお店の貸しウエアに着替えています。
 夜勤明けの彼女が9時半に病院を出ると同時に、小雨がどしゃぶりに変わりました。傘など役に立たないほどのです。いつもならそのまま帰宅する彼女ですが、今日は濡れて肌に貼りつくブラウスやパンツが不快でたまらず、駅まで歩く道すがら、ファストファッション店でワンピースと靴下を購入。たまに利用する駅近くのボディケア店に入り、マッサージを受けてすっきりしたあとに新しい服を着て帰ることにしました。
 しかし、いつものボディケア店はあいにく予約でいっぱい。仕方ないので駅ビルのトイレで着替えて帰ろうと、その方向へと一旦足を向けますが、ボディケアを受けずに帰りたくはなくなり、スマホで検索してみると、裏通りのわかりにくい場所ですが遠くはないところにあるようで、そこに行ってみるとできるというので入ったのです。ボディケア60分、をオーダー。施術担当のセラピストは、穏やかな雰囲気の30代と思しき男性でした。

ボディケアの開始からまもなくーーー。
腹臥位になっている、みゆきさんは腹を立てています。顔を真っ赤にして。
力加減についてのやりとりをして、2、3分経ったあと、セラピストの彼におもむろに、
「もしかして、看護師さんですか?」
と問われたのがきっかけです。
彼女は、その質問に驚いてしばし絶句してしまいました。
<え?どうして職業なんか聞くの? 関係ないことじゃない。ボディケアのお店で、セラピストから職業を聞かれたことなんてないですけど。接客マナーがなってないんじゃないの? こんなお店、こんなセラピスト、最低。不快!>
みゆきさんは、すぐにでも起き上がって帰ってやる、と思うものの、セラピストのテクニックは下手ではないし、彼女は怒りをあらわにするようなタイプではないですから、思っても実行には至りません。
彼女は返答をしないまま、引き続き心の中で怒ります。
<だいたい、どうして看護師かもしれないと思ったの? 看護師だとわかる痕跡はないはずだけど。手の甲へのボールペンのメモは、今日の勤務ではしてなかったし…。まさか、お団子にまとめた髪のままだったのがいかにも看護師っぽいとか? 疲れた顔しているから看護師かもとか? なんとなく雰囲気で、なんて言わないでよね。なんなのよ! 失礼な! ばかにしないでよ>
 どうしてこんなに腹を立てているのか、自分自身にどこか不思議に感じながらも彼女は心の中で続けます。
<で? 私が看護師だったとしたら、なんだっていうのよ。あれですか、医療従事者のみなさん、がんばれー、の通り一遍のエールの言葉をかけようとしている? まあ、応援の声はありがたいですよ。でもね…。あっ、まさか、看護師を敬遠する感覚? まさかね、そうだとしても、まさか態度にあらわしはしないよね。友達の看護師は、子どもが保育園で差別されて傷ついたけどね! 前線に立ってがんばってるのに…。なんなのよ!どうかしてるわよ>

開始から20分ほど経過ーーーー。
彼女は落ち込んでいます。
丁寧にマッサージした彼女の右腕を、セラピストが大切に大切にする手つきでそっと定位置にもどしたとき、彼女はずっと店内にかかっていたと思われるBGMにはじめて気づき、さらに、かかっているオルゴールアレンジのその元曲が、小学校の卒業式にみんなで歌った曲だとわかったら、感情が「怒」から「悲」に切り替わり涙が流れ出しました。
<このセラピストさん、もしかして、病院で私のユニフォーム姿を見かけたことがあるのかもしれない。だから、看護師? って聞いたのかも。なんでさっきはそんなことも考えずに怒ってしまったんだろう。いつものボディケア店にも、私はどうしていつものようにwebで予約可能かどうか確認しなかったのだろう。浅はかでダメ人間の私…>
 彼女は、一緒に夜勤をしていた主任が言ったことを思い出します。
「嵯峨さんは共感能力が高いから、二次的外傷性ストレスが起こらないように、共感疲労に注意したほうがいいかもね」
<主任は私を見間違えている。私は共感能力なんて高くないんだから。能力は低いのに、わかったような顔をするのが得意だから、あの人は私をいつまでも試しているんだから、きっと>
 あの人、とは彼女が担当している女性患者さんの一人で、みゆきさんに対して無理なことを頼んだり暴言を吐いたりが続いています。今朝はわざわざみゆきさんあてに、「あなたが、ここのスタッフの方のなかでいちばん冷たい目つきをする」と書いたメモを寄越しました。そして今日の勤務終了時に、しばらくは、みゆきさんはその女性の担当をしないようにと師長から話がありました。正直なところほっとしたみゆきさんですが、その女性患者さんの孤独を思うと、離れることに罪悪感のようなものが生じています。

開始から35分ほど経過―――。
みゆきさんは、全身のすみずみまで穏やかに血がめぐりはじめている感覚になっています。悲しい気分が薄らぎ、涙も滲んできません。
<身体だけじゃなく、気持ち自体もゆっくりと落ち着いてうつ伏せになっているような感覚。このお店に飛び込んで正解だったのかも。このセラピストさん、私が返事をしなくても、黙って丁寧に心をこめてやってくれたような気がする>

開始から40分ほど経過―――。
みゆきさん、眠りに落ちました。

施術が終了し、新しい服に身を包んだみゆきさんは、受付近くの椅子に座り、紙コップの白湯を飲み干します。全身がすっきりと整っている気分で、腹を立てたのも、泣いたのも、遠い過去の出来事のような感覚です。もはや、どうして看護師ですか? と聞かれたかなんてどうでもいい。第3の眼、チャクラのことなどに思いを馳せます。
会計の際、セラピストさんが看護師ですかと彼女にたずねた意味がわかりました。看護師に、応援の気持ちをこめて割引サービスをしているため、その確認だったのです。セラピストさんは申し訳なさそうに付け加えます。
「そのことを受け付けの段階で確認するのを忘れて、施術がはじまってから伺ってわずらわしい思いをさせたのではないかと思います」
「え?そうなんですか。私、看護師です。それではありがたくサービスを受けようかしら」
そう返しながら、みゆきさんが看護師である証として、看護協会の会員証を差し出すと彼は手のひらを横に振って、
「いえ、証明するものなどご提示いただかなくていいことにしているんです。でも、お願いしていないのに、看護師のみなさんはそうやって証となるものをお出しになんるんですよね、尊敬します」

 お店を出ると天気は晴れに変わっており、笑顔になったみゆきさんは、夜勤の休憩のときにちらり話題になったドラマ「ソロカツ」の主人公の女性の真似をして「なるほどねえ」と心の中で言ってみたそうです。

ページの先頭へ戻る