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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第206回 飲まないクスリ 2021/8
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 午前10時すぎの透析専門のAクリニック。
 リクライニングチェアタイプの透析専用チェアがずらり並んだ透析室で透析が行われています。いちばん奥の、パーテーションで囲われたチェアで、患者の添田晋一郎さん(71歳)が透析を受けており、そのそばで、看護師の寺内有沙さん(38歳)が座り、手縫いで雑巾を縫っています。そのスペースにはゆっくりとオルゴールが鳴っているような特別におだやかな空気がただよっています。

 10年前。寺内さんは、某病院の循環器内科を退職し、ふた月休んだあとにAクリニックに入職しました。同時期に添田さんも、Aクリニックに通い始めました。
本物のダンディ。
 寺内さんは、添田さんについてそう思うようになりました。かならず仕立てのいいスーツにハット姿で来所。持参のスウェットに着替えて透析を受けます。時計もバッグも靴も、彼が選び抜いたシンプルなデザインで長持ちしそうな物。博識だけれど、それをひけらかすことはせず、なにか質問をすると端的に返してくれて、ユーモアとウィットにとんだ会話。ほかの患者に年齢を聞かれたりすると、
「スヌーピーがこの世に登場した1950年生まれです」
と返し、
「彼は僕の心の友なんですよ」と言ってニコリ。また、自身の病状や体調について、客観的にとらえて寺内さんらスタッフに率直に相談する姿勢にも知的な冷静さがあらわれていました。
 なんといっても寺内さんが彼にダンディさを感じたのは、彼がいつも心に穏やかさを保っている点でした。週三回を10年間、添田さんに接してきましたが、機嫌が悪かったことが一度もありません。
 三年ほど前、寺内さんは彼にいいました。
「添田さんは、いつも心が整っている感じで、心が平らかで、達観しているというか、人としてすごいなあ、って思います」
 すると彼は目を丸くしたあと、少し嬉しそうに頬をゆるめて言いました。
「もちろん、達観なんかしてないですよ。日々、煩悩にとらわれ、ちょっとしたことで凹んだりして、気分の波もあります。
ただ、飲まないクスリをいろいろ用意しており、随時それを使ってますから、それが効いてて、こちらに伺うときは、ある程度平らかな感じでいられるのかもしれません」
「飲まないクスリというのは?」
「好きな音楽を聴いたり、映画見たり、詩を読んだり、とっておきの場所に行ったり、とかいろいろです。お気に入りの路地を通るとか、大好きなスイーツを取り寄せて食べるといった小さなことを合わせ技でやったりもして、心的エネルギーをチャージすること、自分を鼓舞するようなことをね、そう呼んでるんです最終兵器と呼んでいる、絶対にね、落ち込みから引き上げてくれるクスリもね、あるんですよ、ふふ。具体的にどんなことかは恥ずかしいので言えませんが。
妻に先立たれてしまって一人暮らしをはじめたとき、喪失感でどうしようもなくなって、うつ的になって、内服薬を処方してもらって飲んだときに体調が悪くなり、抗不安薬のようなのは極力飲みたくない飲まないと決めて、飲まないで方策を考えるようになったんです」
心のセルフケアに注力しているのだなと、寺内さんは納得した思いでした。

 そんな添田さんの心が、三週間ほど前から、少しずつ安定を欠きはじめたのです。
最初は、表情にわずかに険がある程度でした。寺内さん以外のナースたちは、いつもとまったく変わらないという意見で、様子を見ることになりました。するとその後、いつもの鼻歌(曲は「雨に唄えば」)が聞かれなくなり、笑顔がどこか作り笑顔のようになり、次第にその笑顔もあまり見られなくなり、話せば必ず乗ってくるマンガ「ピーナッツ」の話を持ちかけても乗ってこないため、寺内さんは先週、思い切って彼にたずねてみました。
「もしかして、調子悪いですか? 心配です」
「そうですか」
 応えて彼はしばし黙り込んだあと、口を開きました。
「実は、飲まないクスリがね、どれも効かなくなっています。最終兵器さえだめで。今回、気持ちが落ち込むことになったきっかけについては、ごめんなさい、言いたくないのですけれど、きっかけそのものよりも、飲まないクスリとなる手段がない、という点に困惑しているうちに、海の深く深くに引っ張られて沈んでゆくみたいに気分が落ちていってる感じでね。
 寺内さん、声をかけてくれてありがとうございます。何か、飲まないクスリ、ないでしょうかね。何も手立てが浮かばない私は、心の友のスヌーピーにもあきれられて遠くに行かれてしまった感覚です。精神に対する内服薬はね、飲みたくないのになあ」
 飲まないクスリがないことが彼にとって一大事であり、その事実に相当ダメージを受けていることが伝わってきました。また、坦々と自身の思いを語ることができる添田さんは、強い人だなあ、と寺内さんは改めて尊敬の念を抱きました。

 その翌朝、業務開始時のナース全員のミーティングの際に寺内さんは、みなに諮りました。
透析中の添田さんのベッドサイドで10分ほど縫い物をやらせてほしい、看護として、と。それが、彼にとって飲まないクスリになるかもしれない、ということも説明しました。
前に、添田さんが一度話してくれたことを寺内さんは思い出したのです。子どものころ、縫い物をしている母のそばで昼寝することが最も心落ち着く幸せな時間だったこと。子どもの頃の母親に、寺内さんはどこか似ていること。
しかし、彼女の提案にみなは首を縦に振りませんでした。ナースがひとりの患者さんだけにあからさまな特別扱いをした、と不満が寄せられて問題になったばかりで、寺内さんの行動がほかの患者たちに特別扱い感をもたらしそうだし、忙しい他の看護業務を優先するべき、などの意見によってです。
寺内さんは<ならば、なんのために透析クリニックに就職したのだろう。患者さんとじっくりかかわり、それゆえにできる看護がしたかったからなのに>と思い、翌朝、再度、ミーティングで諮りました。勘は科学的ではないかもしれないが、10年かかわっている看護師として、添田さんはいま精神の状態において重大な岐路に立っているように感じるので、看護師としてタイミングを逃したくないと食い下がりました。すると、こういうことを言い出しそうもない寺内さんの意外な熱心さに押された形で、みなは了承したのでした。

 そして今日、実施しているのです。はじめてスーツではなくスウェット上下のままクリニックに現われた添田さんに、寺内さんが縫い物の件を話してみると是非にとのことで。
そばに座り、クリニック用の雑巾を縫い始めた寺内さんを、添田さんはじっと見つめては目を閉じるを繰り返します。

透析が終わり帰る際、添田さんは寺内さんに言ったそうです。

「率直に申し上げて縫い物をしていただくことは、残念ですが飲まないクスリにはならないようです。でもね、看護師のあなたが考えてトライしてくれたという事実に感動し救われた思いになり、勇気が湧いてきました。頑なに精神の飲むクスリを拒否するのはやめて、阿部先生にメンタルコントロールの相談をしてみたいとおもいます。ありがとう」

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