Bさん(47歳・男性)は、肝臓を悪くしてこの夏に2週間ほど内科病棟に入院しました。
その間に彼は、三と二分の一回寝たふりをしたそうで、それをBさんは、居酒屋でウーロン茶を飲みながら語ってくれました。
一回目の寝たふりは、入院して三日目の午後二時過ぎ。Bさんの病室(四人部屋)にナースが入ってきて、廊下側の患者さんから検温を開始。Bさんはそのナースの声をカーテンごしに耳にして、
<今日は、あの、つっけんどんナースのQが検温係りかよ。やだやだ>
と、心の中でつぶやき、タオルケットを頭まですっぽりかぶり寝たふりを決め込みました。ナースQは、Bさんのベッドサイドにやってきて何度かBさんの名前を呼び、彼の顔を覗きこんだあと、彼の検温をあきらめて、次の患者さんの検温へと移動したそうです。
このときのことを振り返り、Bさんはいいます。
「緊急入院したときの担当がこのQという人だったの。ぼくは、仕事が忙しい最中の入院という事態にイライラしていたし、あんなに体調悪いのははじめてだったし、なんだか、彼女の顔見ただけでむっとしちゃってね。それと、彼女の物の言い方がすごくつっけんどんな気がして、苦手な人だと思った。実は午後の検温では、一日分の尿と便の回数をナースに伝えなければならないのに、この日は、うっかりカウントを忘れちゃってたから、それを言うのも嫌だったし」
二回目の寝たふりは、入院七日目の夕方。横になっていたBさんの耳に、廊下から耳慣れた声が届いたのです。小さいときからのBさんの喧嘩相手である従兄弟の声でした。従兄弟がナース相手に大声で、
「あいつは子供のときからバカでねえ、酒も丁度いい量でやめるということを知らないんですから驚いちゃいますよ、それで病気になってんだから世話ないや、ハハ」
と話しているのが聞こえてきてむっとしたBさんは、ベッドサイドにやってきた従兄弟がどんなに呼びかけても寝たふりを通したそうです。
Bさんはいいます。
「このとき、あいつがなにかで入院したあかつきには、見舞いに行って、思いっきりけなしてやると決めました。リベンジです。そのためにはしっかり安静にして治療を受けて元気になんなきゃってね、気合が入りましたよ」
三回目の寝たふりは、退院日が決まった日曜日の午後。昼寝をしていたBさんは、家族の会話が聞こえてきて覚醒。Bさんが寝ている間に奥さんと娘さんと息子さんが面会にきていたのです。Bさんは、目蓋を閉じたままにし、寝たふりをすることにしたそうです。
Bさんは照れくさそうに頭を掻くと、ウーロン茶のグラスを見つめながらそれを揺らし氷の音をさせます。
「ぼくが寝ていると思い込んで話しているだけのなんでもない会話ですよ。退院の日はパパの好きな茄子の煮びたしを作ってあげようか、とか、それなら安上がりだ、とか、当分の間ビールという言葉は発しないようにしよう、とか、それは返ってよくない、どうせテレビではビールのCMバンバンやってるよ、じゃパパだけテレビ禁止ね、そうしよう、いやそこまでするのは可愛そうだ、とか、そういうこと。でも、なんか、すごくじわじわと包まれるように嬉しくって。子供のとき寝たふりをして、親に抱きかかえられて寝床まで運んでもらったときみたいな、なんとも言えず穏やかな気持ちになってね」
四回目の寝たふりは、退院前日の午後二時すぎ。カーテンを締め切ってパジャマを着替えていたBさんの耳に、ナースQの声が聞こえてきました。検温のようです。別の病室の担当をしていたのか長期休暇をとっていたのか、彼女が病室にやってきたのは、入院三日目のBさんが寝たふりをして検温を避けて以来のことでした。容態がよくなり、退院も決まった今、Bさんは、寝たふりをして彼女を避けたことを、少し後悔していました。つっけんどんに思えたのは、自分の体と心の調子が悪かったからで、実際は単にさばさばした人なのだとも思うようになっていました。しかしBさんは、急の来訪にあわててしまい、ナースQとどう接したらいいかわからず、着替えを済ませると寝たふりの体勢になったのでした。
そこへ、ナースQが「Bさん」と声をかけながらカーテンを開けてベッドサイドにやってきました。彼女の数回の呼びかけに対し、Bさんは微動だにせずにいました。するとナースQは、背中を丸めてタオルケットをかぶって横になっている彼にこう言ったのです。
「Bさん、明日は病院の設立記念日なので、そのお祝いとして昼食にお饅頭かケーキのどちらかが付きます。どちらがいいですか? ご希望がなければ、自動的にお饅頭がつくことになっています。希望受付がもう締め切りになりますが、どうしましょう」
「ケーキで」
ケーキに目がないBさんは、退院といううれしい日にはどうしてもケーキを食べたいと思い、寝たふりをしていることなどすっかり忘れ、思わず答えてしまっていました。
そんな自分が滑稽に思えたBさんは、クククと笑い出し、タオルケットを払って起き上がり、頭を掻きながら、ナースQから体温計を受け取ったのだそうです。
Bさんは、ウーロン茶を飲み干すと、笑みを浮かべながらこういいました。
「ナースのQさんは、ぼくの寝たふりを最初から見抜いていたんだね。たぶん、一回目のときも。というわけで、四回目の寝たふりは最後までしとおせなかったから半分。全部で三と二分の一回。寝たふりするのも、悪くないね」
ストレスいっぱいの入院ではなかったようで、少しほっとしました。