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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第172回 イタズラ 2018/10
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 お昼前のショートステイ施設の個室。
 ベッド上に仰臥位でいる宮澤順造さん(91歳)は、傍らに飾った小鹿のぬいぐるみ・リンちゃんに心の声で話しかけています。
<どうしたもんかねえ。あと10分で加奈子が来ちゃうよ。あいつ、せっかちだから、予定より早くきて、あれよあれよという間に俺を連れて帰っちゃうかもしれん。
 どうしても、ひとこと謝りたい。なんか、さっき、あの人の声が廊下から聞こえた気がするんだけど、一向にここには顔を出さないなあ>
 あの人、とは、復職して間もないナースの泉川紀子さん(39歳)のことです。加奈子とは順造さんの娘さんで、これから迎えに来ます。
 昨日の夕食後に順造さんはひとつのイタズラを企みましたが、思う通りに事が運びませんでした。
 まず夕食後に、古株のナースの津坂みどりさん(46歳)が食後の内服薬を順造さんのところに持ってきました。
「順造さん、こちら、飲んでくださいね。お願いしますね」
「わかってる」
白い錠剤が一錠入った透明の四角い袋を受け取り、彼は仏頂面になったのでした。
<なあ、リンちゃん、いつ、順造さんと呼んでいいと許可したっていうんだ。馴れ馴れしい。いちいち気に入らない>

 ショートステイに入った当初、ナースらは、順造さんが内服薬を口に入れて、水とともに飲み下すまでを確認してベットサイドをあとにしていました。津坂さんのそれは、眉間に皺を寄せて、順造さんの動作や口元や喉のあたりを凝視するという見届け方でした。それが順造さんとしては、疑いの目で見られているように感じて、実におもしろくないのでした。そしてある日、津坂さんがいつものように内服を確認したときに彼は爆発したのです。
「俺の動きはスローモーではある。年だからぼんやりすることもときにある。しかし。薬はちゃんと飲める。渡してもらえばちゃんと飲む。だから今後一切、刑事みたいに監視するようなマネはするな!」
 と、唇を震わせながら声を上げて言ったのでした。
 それ以後、ナースは内服薬を渡しにくるだけとなりました。
 すると順造さんは、津坂さんの新たな行動が癪に障るのでした。内服薬を渡しにきたあと、間を置いてベッドサイドに内服用の水のコップをさげに来た際に、順造さんの衣類や掛け布団やベッド上などを探って、薬を落としたりしていないか、必ず確認するのです。
<落としたならば、落としたことを、俺はわかるわ、まるでボケ老人を扱うみたいに! 失敬だよな、リンちゃん>
 そして彼は、何かしら津坂さんを困らせてやりたいと考えるようになったのです。

 昨日の夕食後、津坂さんに渡された薬をきちんと内服したあと、彼はその薬とそっくりの白い粒の清涼菓子をぽろりと掛け毛布の上に落としました。津坂さんがそれを見つけて、薬を落としたと勘違いしてあわてているところに「ばかめ」とばかりに清涼菓子のケースを見せてやろうと考えました。
 ところが。
 夕食後の内服薬を渡しにきたのは津坂さんでしたが、そのあとに内服用の水を下げにやって来たのは、復職したばかりの泉川さんだったのです。
 泉川さんは、毛布の上に落ちた白い粒をいち早く見つけてそれを拾い、広げたティッシュの上に乗せました。順造さんは、すぐに清涼菓子のケースを見せて、それは薬ではないと泉川さんに伝えようとしましたが、動作をもたついてしまい、そのうちに泉川さんは飛ぶように部屋を出て行ってしまいました。
 泉川さんがそんなに慌てたのは、指導係の津坂さんに何かしら注意されると思い、動転してしまったのだろう、と順造さんは思いました。津坂さんが彼女を睨みつけているのを、順造さんは何度も目撃していました。
 泉川さんと入れ替わりに津坂さんが慌てない様子で入ってきて、ティッシュの上の白いひと粒を手に取って「これ、入れ物に戻しますか?」と、順造さんがそばに置いた清涼菓子容器を指さすので、順造さんが顔を横に振ると、津坂さんは検温をしたのち笑顔を見せて部屋を出ていきました。
 順造さんは、さっそく小鹿のぬいぐるみに心の声でいいました。
<キャツは新入りのあの人を陰険にこっぴどく𠮟りつけ、ここには何食わぬ顔で入ってきて、この入れ物が置いてあったから薬じゃなくてお菓子だとわかって、内心ではすごく驚いたんだと思うよ。でも、動じないような態度をとったんだよな。俺が変な細工しなきゃ、あの人はキャツに𠮟られなかったろうにな>

 そんな出来事が昨日あったために、順造さんは、泉川さんに会って謝りたいと思っているのですが、今日は一度も順造さんのところにやってこないのです。
 順造さんは、ちらちらと時計を見ながら、落ち着きのない様子になってきます。
 そしてベッドサイドに準備された車椅子に目を留めます。
<待ってるばかりでは、だめか。だいたい、謝るときにはこちらから出向くという形でないと失礼にあたる。車椅子までの2、3歩ならがんばれば大丈夫なんだ。ナースコールで誰かを呼ぶとキャツがきてしまうかもしれないからな>
 順造さんは、座位はなんとかとれても立位、ましてや歩行は介助がなければたいへん危険な状態です。
 彼はもぞもぞと動きだします。
「順造さん!」
 津坂さんがなんとなく気になって部屋をたずねたなら、彼が身体を丸めベッドから落ちそうになっており、ころがり落ちる俵を抱えるかのように彼女はがっちりと抱き留めました。

 順造さんのこの一連の行動には、誤解と物忘れが関係していました。復職したばかりの泉川さんは体調不良をおして仕事をしようとしており、そんな彼女に無理しないよう伝えるために津坂さんは睨むような視線を向けることがありました。また、津坂さんが廊下で𠮟っていたのは泉川さんではなく別のスタッフに対してでした。
 それと、昨夕の内服薬は、順造さんがぼーっとしている様子だったため、津坂さんがその場で見届ける形で内服していたのです。そのことを順造さんはすっかり忘れてしまっていました。
津坂さんと泉川さんは、彼の夕食後の内服が済んでいることがわかっていたので、毛布上に落ちていた白い粒は内服薬ではないと即座に判断することができましたし、似ているようでも清涼菓子だとわかる大きさでした。泉川さんが急に順造さんの部屋をあとにしたのは体調が悪くなったからでした。

しっかり身体を抱き留めてくれて、さらに「無事でよかった」と言って眼をうるませた津坂さんについて、順造さんはリンちゃんに彼女の悪口を言わなくなりました。

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