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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第199回 名前を知らなくても 2021/1
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 平日の午前11時過ぎの某病院。
 外来受診エリアのあちこちに、冬の陽射しが届いています。大きな窓ごしに。
 午前中の診察を待つ患者さんたちが、マスクをつけてずらり長椅子に座っており、その一角の、内科系の外来スペースにある柱を背に、尾野今朝子さん(84歳)が立っています。不安げな表情で、呼び出し番号がうつる電光掲示板や窓のほうなどに忙しく目を転じています。
 今日は、月一回の彼女の受診日なのですが、いつもここで会う女性の姿を探しているのです。

 尾野さんがその女性と知り合った4年前のあの日も、今日のように冬の明るい陽射しが屋内に届いていました。
あの日、尾野さんが窓近くの長椅子に座っていると、ガウンを羽織った12歳くらいの女の子が現われました。看護学生らしき女性が押す車椅子に乗ってです。二人は燦々と陽の射している場所に位置しました。そして女の子のほうが、まるで流れ落ちる水を受け取るかのように両手のひらを御椀のように形づくり、窓に向かって突出しました。
 傍らにしゃがんでいる看護学生も女の子に何かを言われて、両手を出して御椀の形を作ると、女の子はそこに、自分の手のひらの中のものをこぼさないように水を移すような仕草をしました。嬉々とした表情で。
それをじっと見ていた尾野さんが思わず「あらー、たのしそうだこと」とつぶやくと、となりに座っていた女性が「ほんとね!」と弾むようにつぶやき、二人は顔を見合わせて笑顔になったのでした。尾野さんはとなりの女性を同年代だと感じました。
 女の子は何回か自身の手から看護学生の手に水を渡すような仕草をし、看護学生は手に受けた水を自分の肩や腕に馴染ませるような仕草をしました。それを繰り返す二人を尾野さんととなりの女性は目を細めて見ていました。
そしてその場を去ろうとする、尾野さんは思わず声をかけたのです。
「お嬢様方、たのしそうでしたね。窓から泉が湧き出ていたのかしら」
 すると尾野さんのとなりの女性も笑顔で言いました。
「あら、泉だったね。私、降りてくる不思議な煙のようなものを手に受けているのかって。その煙はご利益があるから肩や腕につけているのかなって」
「あら、あなた、観察力と想像力が豊かだわ。たしかにお大師様のところの煙でやるような仕草してたわ」
 尾野さんがとなりの女性に言いました。
 すると、看護学生が女の子とアイコンタクトをとり、車椅子を押して尾野さんたちのそばにくると、看護学生がしゃがんで応えたのです。
「いえ、手に受けていたのは、日射しです。陽子ちゃん、あっ、彼女は太陽の陽の字の陽子ちゃんなんですね」
 と車椅子の女の子に目配せをしてつづけます。
「さきほど院内散歩に出たのですが、陽射しが燦々と降り注いでいるねって私が言ったら、陽子ちゃんが、じゃあ、日射しをいっぱい手で掬ってあげるからって言い出して、日射しは美容にもいい、なんて言うので、ありがたく肩などに塗ったのです。ねっ」
 女の子はニコリとすると頷きました。
 看護学生が立ち上がり、車椅子のストッパーを解除し、「では、失礼いたします」と言うと、はっとした様子になり、
「ごめんなさい。看護学生として、患者さんの名前を明かすことはよくなかったかもしれません。どうか、お忘れください。お願いします!」
といって頭をさげました。
「了解。心配しないで。気持ちのいい看護学生さんね、きっとあなた、素敵な看護師さんになるわ」
「私もそう思います」
 尾野さんととなりの女性が順に言うと、
「私もそう思います」
と車椅子上の女の子も言いました。すると看護学生は、ぼろぼろと涙をこぼしはじめ何度も二人に頭を下げてその場をあとにしたのでした。

 この出来事をきっかけに、尾野さんととなりの女性は仲良く話すようになりました。毎月、同じ受信日の二人は会ってはとなりに座りあれこれ話し「じゃ、また来月」と挨拶して別れました。話題は病気や家族のことではなく、童話について、音楽について、コンビニの店員さんがおもしろかったこと、言葉をしゃべりそうな犬のこと、などなどたわいのないことばかりでそれがまた二人はたのしかったのです。
 そしてなんとなく互いの名前は聞かないうちに時が過ぎ、そのうち、
「名前も知らないのに、こうして会って話せることがたのしいわね」
 と言い合うようになりました。会えば自然に手をとりあって座り、会話しました。お互い、名前など知らなくても、親しい関係である事実を共有しあっている自信のようなものが二人にありました。

 尾野さんは、柱を背にして立ちその女性を探しているのです。
 彼女は今日、いつもより二時間以上おそくここに到着しました。遠方で下宿生活をしている孫とオンラインで話す機会を逃したくないために家を出るのが遅れ、補聴器をつけるのを忘れて戻ったりしたためです。
 いま、尾野さんの胸の内では不安の袋がふくらんではちきれそうです。
 最近、物忘れが多くなり、孫のことと補聴器のことだけで二時間も遅れるはずがないのに、ほかになにをやっていたのか思い出せないのです。また、補聴器を聴こえの良くない古い方のをあわててつけてきてしまったため、音が割れて聞き取りにくく、呼び出し番号のアナウンスがあってもわからないと思うと電光掲示板から目が離せない状態です。そのため、待合スペースをすみからすみまで歩いて、いつもの女性を探すことができません。もう帰ってしまったのかも、と思っても、頭の中ですぐ否定します。月に一度、ここで会えるのが何よりもたのしみと語りあっているのですから、そう簡単に帰ってしまうはずはないと。
 彼女の名前を聞いて手帳に書いておけば受付の人にたずねてみることもできるのに。自分の頭がいつまでもはっきりしてると思ってたのが間違いだった…。尾野さんはそう思うと悲しくなり、心がおろおろしてきます。
 そこを通りがかった看護師の北川さんは、尾野さんの様子が気になって立ち止まり「なにかお困り事ですか?」と声をかけます。
「い、いいえ。大丈夫です。ありがとう」
 と応えながらも、尾野さんは心細さのあまり北川さんのカーディガンの袖の部分をつまんでつかまります。
「お座りになりませんか? あっ、すぐそこが一人分空いてますので」
 北川さんは、尾野さんが電光掲示板をちらちら見ていることがわかったので、それが見える場所を見つけ、彼女を案内します。手をとって。
 尾野さんは座ってもまだ不安げな様子ですが、北川さんは業務のために急いで行くところがあり、受付のナースに尾野さんのことを伝えようと考えます。そのときです。
 尾野さんが「あー!」とひときわ大きな声を発します。何事かと思い、北川さんが尾野さんの視線をだとると、診察室から出てきた80代と思しき女性が立っていました。
 
 こうしてなんとか、名前を知らない外来患者さん同士が、無事今月も会うことができたのでした。
 
 北川さんは、四年前に二人の前でぼろぼろ涙をこぼした看護学生です。あのときの車椅子の女の子の形見の小さなキーホルダーをいつも胸ポケットに入れています。

 尾野さんらと北川さんは、4年ぶりの再会であることは気づきませんでした。

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