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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第184回 復職する? 2019/10
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 正午近くの郊外のショッピングモール。
 通路中央にずらり据えられたソファーの一つに波平涼子さん(36歳)が座り、通り過ぎる人たちをぼんやり眺めながら考えています。
<ここの書店の看護書コーナーや文具や洋服とかをちらっと覗いてからスーパーに回ろうか。スーパーでゆっくり買い物できるようにほかには寄らないほうがいいか。でも、ちょっと看護雑誌をぱらぱら捲ってみたい。でもなあ。うーん、どうしようかな>
そして彼女は心の中で苦笑します。
<こんな、どうでもいいようなことでぐずぐず迷っているようでは、もし復帰したって使いものになんないでしょ>
 波平さんは看護師で某病院の消化器外科病棟に勤務していましたが、9年前に産休に入り、そのまま退職に至りました。育休明けに復帰するつもりでしたが、子供をどこにも預けられなかったのです。自宅でできるちょっとしたバイトをしたりしているうちに年月が過ぎました。
 いよいよフルタイムで仕事ができる状況となったため復職したいと考えるようになりましたが、彼女はなかなか、その一歩を踏み出せないでいます。来年にはブランク10年のナースになってしまい、9年とはかなり響きが違う気がして、ほぼ復職の決心はついているのですが…。
 今朝、探し物をしていると、病院勤務していたころに使っていたチューブクランプが小物入れの奥から出てきました。うすいピンク色のハサミ型のそれは、いつもユニフォームのポケットに入れていました。退職以来、つまり9年ぶりに手にとってみると、勤務していたころの記憶が断片的に頭に浮かんできます。
<輸血部に血液を受け取りに行く際に廊下の窓から見えた夕陽――、夜勤を終えて病棟からロッカーまで中庭などを通って少し遠回りしたときの浮遊感――、3週間ほどの入院でものすごく荷物が増えた方の退院時の大量の紙袋――、それから、ん? えーと、あれ、次に、思い出しかかったことが、浮かんでこない。あれ? えーと、なんだっけ>
 思い出せなくてもやっとする波平さんです。
<そうだ、それを思い出せたら、来週の復職支援の研修に行く、思い出せなかったら行かないでもう少し考えることにしよう!>
 と決めたあとから彼女はすぐに後悔します。
<行く、になっちゃったらどうしよう。いや、行かない、になっても困る>
 と、目の前を、見覚えのあるバッグがゆっくりと横切り、彼女はそれを二度見しました。大き目で青色のビニール製のショルダーバッグの蓋の部分に、一頭のキリンがはみださんばかりにプリントされています。
<えーっと、どこで見たバッグだっけ。うーん、思い出せない>
 それを肩から下げている男性らしき人は薄手のトレンチコートを羽織っており、ショッピングモールの奥へと進み、姿が小さくなっていきます。
 波平さんはスマホで時間を確認し、きょうは書店もほかの店を見るのもやめてスーパーのみにしようと決めます。ここのショッピングモールは通り抜けできないようになっており、みな、つきあたりまで行くとまた戻ってきます。さきほどのショルダーバッグの人も、待っていれば戻ってくるはずで、もう一度よく見たいと思いました。
 すると、思ったよりも早く、その人がこちらに向かって歩いてくるのが見えてきました。少しずつ、姿が大きくなり、顔も見えてきます。
 そして、彼女は心の中で声をあげます。
<あ!この顔も見たことある。えーと、えーと、そう、患者さんだ。名前はわからないけど、たぶん、産休に入る直前ごろ、担当したことのある方。そう、ベッドサイドにいつもあのキリンのバッグを置いてた方。でも、ほんとうにあの方?>
大手術が行われ回復に向けていくつもの難題がある方でした。そして彼がまだ離床できない状態のときに彼女は退職したのでした。
<あの顔の気がするけど、あのときより若くなってる気がする。ほんとにあの方かな>
 どんどん近づいてきます。そして、みるみるうちに記憶が蘇ります。
<そうだ、あの方に私、手術前にわりと接したのだけれど、ぜんぜん目を合わせない方だったんだ>
 さらにその人は近づいてきます。波平さんがじっと見ていることに気付いたのか、その男性も波平さんを見ています。
<え? がんみ? 一度も目を合わせなかったのに? でも、あれは看護師と患者という関係だったから? 思いきって声をかけてみようか>
 と思ったものの名前がどうしても思い出せず、そのうちに彼はゆっくりと目の前を通りすぎて行ってしまいます。
<それにしても、不思議だな。あの患者さんじゃないの?>と首をかしげた波平さんは、心の中でふたたび<あ!>と声をあげます。さきほど、思い出せたら行く、と決めた思い出せなかったことをぽんと思い出したのです。
 産休に入る間際のころ、キリンのカバンの男性と同室だった高齢の男性患者さんが、彼女にたずねました。
「SFってどういう意味だか、知ってる?」
「えーと、SF映画、というふうに使うSFのことですよね。サイエンス・フィクションの略ですよね」
「いいや、SFはね、少し不思議、という意味なんだ」
「そっちのほうがいいですね!」
「だろ!」
 そんな、何気ない、患者と看護師の日常の会話を思い出し、波平さんは復職支援研修に参加してみることにしたそうです。

 その後、古巣に復職をはたした波平さんは、ショッピングモールで出会った男性は、9年前に大手術をした彼であることがわかったそうです。奇跡的な回復をしてすたすたと歩いて退院したのだったということも。

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