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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第170回 総合案内にて 2018/8
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 昼まえ。
 A病院の総合案内に、看護師の白鳥(旧姓・一条)節子さんが座っています。もうすぐ定年退職となる彼女は、明日から有休消化に入るため、今日が最後の出勤日です。
 彼女の目の前に、ビジネススーツ姿の山中秀介さん(46歳)がやってきて言います。
「あの」
「はい、こんにちは!」
 白鳥さんが落ち着きと明るさのある口調で返しました。
 すると山中さんは目を丸くします。そして白鳥さんのネームプレートを確認し、わずかに首を傾げながら彼女を見つめます。
 白鳥さんは不思議そうに山中さんを見つめ返します。
 実は二人は、いまから38年前にA病院の小児病棟において患児とその受け持ち看護師という関係にありました。
 山中さんは、白鳥さんの「はい、こんにちは!」の声と独特のイントネーションに接して、
<もしかして、一条さんではないか>
と思い、咄嗟に名札を確認したのです。そしてすぐに、
<結婚して姓が変わっている可能性が高いのだし、あのときの一条さんがここにいるはずがない>
と思い直しました。しかし、声と口調はたしかに一条さんのような気がして、彼女の顔から目を離せない山中さんです。
 38年前、両親が、仕事の関係で頻繁に面会に来ることができなかったため、8歳だった山中さんは寂しさや心細さと日々戦っていました。また、同室の患児たちはみな年下のため、お兄さんとしてめそめそ泣いたり看護師さんに甘えたりなどしてはいけないと決めていました。
 そんな秀介君をほかの患児のいない別室に連れだし、絵本を読んだり、いろんなお話をしたのが一条さんでした。秀介君には甘えることができる存在が必要だと、受け持ちで新人ナースの一条さんに、そうすることを上司がすすめたのです。山中さんの脳裏に、絵本の「まんが日本昔ばなし」を一条さんが読み聞かせてくれた日々のことが一気に蘇ります。一条さんは、アニメ「日本昔ばなし」で演じていた市原悦子さんの声に少し似ていて、読み方にも臨場感があって、秀介君はいつもとてもたのしみにしていました。
 それだけ声の記憶が鮮明に残っているので、総合案内に座っているこの女性の声は、あの一条さんなのではないか、という思いに山中さんはふたたび駆られます。一条さんに助けられたという思いのある山中さんは、会えたなら、きちんと御礼を述べたいと思いながら生きてきました。退院の日に、一条さんが彼の身体をぎゅっと抱きしめてくれたときの嬉しさも蘇ります。
 とにかくは訊いてみようと思い、ふたたび「あの」と声を発しますが、それと同時に高齢の女性が山中さんの隣にやってきて「あっ、すみません、いいですか?」と急いだ様子で白鳥さんに声をかけました。
 その人に「どうぞ」とゆずるしぐさをして山中さんは、一歩退きながら「山中です」と白鳥さんに声をかけます。
 すると白鳥さんは「は?」と言って、何もピンとこないといった表情をしたあと、新しくたずねてきた人に顔を向けました。
 そのときに見えた白鳥さんの左手の薬指に指輪がなかったため、山中さんは、一条さんではないかも、と思います。それで同じフロアに見える総合受付のほうで問い合わせをしようと歩きはじめますが、歩を止めて引き返します。トイレに行った息子のジュン君(8歳)と総合案内の前で待ち合わせしているのを思い出したからです。
 白鳥さんは、8歳だった山中秀介さんのことを鮮明に覚えています。38年のキャリアの中で最も印象に残っている患者といってもいいくらいです。寂しさや病気の辛さに耐え、大人びた言葉づかいをしているものの、別室で二人だけで話したり絵本を読み聞かせしたりするときには、彼女の二の腕から手を離さず、子供らしい甘えた表情をしたのです。そんな秀介君が可愛くて仕方ありませんでした。また、秀介君とすごす時間は、緊張で終始張り詰めている新人ナースにとって、こころの和らぐありがたい場面でもありました。なんといっても強く印象に残っているのは、彼が退院の日に、彼女に「ぼくの良く知ってる場所だから」といってメモを渡してくれたことです。ある地区の喫茶店にもう一度行きたいのだけれど、迷路のようでわかりづらい、とぽろりと言ったことを覚えていた彼は、詳細に地図を書いてくれたのでした。
新人ナースが入ってくると「私は新人のころ、秀ちゃんという患児を担当してね…」と何度語ったことか。定年退職という節目を迎えるにあたり、昨夜も秀ちゃんと接したことを思いかえしました。しかし目の前で山中と名乗った男性がその秀ちゃんだとは思いません。
 高齢の女性の対応が終わったのを見計らい、ふたたび山中さんが声をかけようとすると、交替するらしい看護師がやってきて、白鳥さんは立ち上がり、山中さんと目を合わせ「失礼いたします」と口を動かし、その場から離れるべく歩きだします。その一連の動作があっという間で、山中さんは声をかけそびれてしまいます。
 すると、白鳥さんは数歩歩いた地点で立ち止まります。
 彼女の目はトイレから戻ってきたジュン君の姿に、釘付けです。38年前の秀ちゃんがタイムスリップして現れたかと思えるくらいそっくりの男の子が現れたからです。
 その男の子はすたすたと歩き、山中さんの隣に立ちます。
 白鳥さんはやっとピンときて足早に山中さんのそばに行きます。
「もしかして、しゅ、秀ちゃん?」
「一条さん?」
 うなずき、しばし見つめ合い、そして、38年前に会ったらかならずそうしていたように、二人は自然にハグしました。

 この再会以来、二人は食事をしたり、メールでやりとりをするようになったとか。思い出話をしていうちに、白鳥さんは山中さんに「日本昔ばなし」を読み聞かせたことを、山中さんは白鳥さんに喫茶店の地図を書いて渡したことを、それぞれまったく覚えていないことがわかったそうです。

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