Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第176回 空色の涙 2019/2
dotline

 夕陽が射している訪問看護ステーション「あゆみ」の事務所内では、訪問先から戻ったナースから順次記録をはじめています。
さきほど玄関チャイムが鳴り、応対に出た所長の市田澄子さん(52歳)が、何かの入ったレジ袋を手にぶらさげて室内に戻ってきます。わずかに微笑んでいます。
その市田さんが「小泉さん」と言いながら、座って記録中の小泉千佳さん(32歳)のほうを向き、顔を上げた小泉さんにレジ袋を掲げてみせます。そして二人は了解した表情になって頷きあい、部屋の隅で記録している看護学生の辻本百合さん(21歳)に市田さんが歩み寄り、彼女の肩に手を載せていいます。
「ちょっと、奥の部屋にきてくれませんか」

小部屋のソファに市田さんと小泉さんが並んで座り、その前に辻本さんが神妙な面持ちで座っています。レジ袋の中身はたこ焼きでした。その香りが室内に漂っています。
「高柳さんのところで泣いてしまったそうですね」
 といって市田さんが辻本さんに笑いかけます。
「すみません」
 辻本さんはうつむいたまま小声で言って、さらに頭を垂れます。

 看護学生の辻本さんは、朝から小泉さんに同行して訪問看護を見学したのですが、ラスト5件の訪問のうちの5件目、高柳和男さん(68歳)の訪問の帰り際に、泣いてしまったのです。
高柳さんは脳卒中の後遺症による右半身マヒがあります。気管切開部を塞いでいないため、言葉が聞き取りにくいことがあります。慣れている小泉さんでも聞き取れないことがあるほどです。
ひととおりのするべきことが終わった小泉さんと、独身の高柳さんの世話をしに来ている姉の頼子さんとが、隣室で提出書類の相談をしているとき、ベッドサイドに緊張して立っている辻本さんに高柳さんが話しかけました。
高柳さんがなんと言っているのかわからず首を傾げる辻本さんに、高柳さんはなんども言葉を投げかけましたが、彼女は聞き取れずでした。
それで辻本さんはボールペンとメモ帳を差し出したのですが、高柳さんはむっとした様子でそれを掛布団の上に投げつけたのです。そしてまた彼は口角に泡をためつつ何かをくり返し言ったのですが、その意味もまたわからず辻本さんはたいへん困惑しました。
と、立腹した様子の高柳さんが、かたわらのラックのほうを、辻本さんにとってほしそうに一生懸命ゆび指すのでした。どれをとってほしいのかやっとわかって、そこにあったノートを辻本さんは渡しました。
すると彼は、そのノートをめくってあるページを出し、辻本さんに渡すと、その手で自身の両目蓋を覆い、肩を震わせました。泣いているのでした。
渡されたノートの左ページには、健側だけれど利き手ではない左で書いたと思われる字でびっしり「もどかしい、はがゆい、もどかしい、はがゆい」と連続して隙間なく書かれており、右ページには「誰か一緒に泣いてくれ」とびっしり。
辻本さんの眼から涙がぽろぽろとこぼれだしました。

「あなた、たこ焼き、好物?」
 市田さんが辻本さんの顔を覗き込みながら聞きます。
「あっ、はい。大好物ですが」
 辻本さんは顔をあげ、目を丸くします。利用者の前で泣いてしまったことについて注意を受けるのだろう、と思っていたため意外だったのです。
「好物? 高柳さんの論、あたってますねえ、空色の涙を流す人はたこ焼きが好きなはずだって、高柳さんはおっしゃるのよ」
「は?」
 辻本さんはまた目を丸くします。
「これ、さきほど高柳さんのお姉さまが、あなたに差し入れとしてお持ちになったの。お詫びの印として、このたこ焼き」
「ごめんなさいね」と小泉さんが話を継ぎます。「となりの部屋で、高柳さんが、あなたを泣かそうとしてるなってわかったんだけど、そのままスルーしちゃって。たこ焼きが来てからきちんと説明しようと思ってたの。たこ焼きはいつもお詫びとしてお姉さまが届けてくれるのよ。高柳さん、学生さんの涙が大好物でね。たまに学生さんが見学に来ると、怒ったり、例のノート見せて泣いて見せたりして、学生さんの涙を誘うの。彼、学生さんの涙は空色の涙で、ものすごく良薬なんだって言って」
「ごめんなさい!」と市田さんが辻本さんに頭を下げ、
「わざと人を泣かせるようなこと、たとえ利用者さんであってもよくないことだし、それもお預かりしている大切な学生さんにそんなことされて、所長として厳重に抗議すべきところなんですが、高柳さん、普段は冗談ばかり言っててまったく弱音を吐かない人で、ふざけているようでも、例のノートに書いてあることも泣いて見せることも、かなり本音の部分があると思われるんですよ。なのであれは彼にとって貴重なガス抜きの意味があると思い、容認してしまっています」
「な、なんだ。そうだったんですか。高柳さんにご不快な思いをさせ、こちらの皆様にもご迷惑をかけてしまったのではないかと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
 そのようなことだったとは。なんだか、ほっとしました」
 そう言い終えると心からほっとしたからか、辻本さんの眼からふたたび涙がぽろぽろとこぼれます。
「あらー、ほんと、涙、空色の気がするわねえ。さっ、高柳さんからのたこ焼き食べて食べて」
 市田さんからたこ焼をすすめられて辻本さんはどんどんほおばって食べます。そして最後の一つになった時点で、ぴたりと動作を止め、
「ごめんなさい! 一人で食べてしまって、お二人におすすめするのをすっかり忘れてて」
と言いながら辻本さんの眼からはまた涙がこぼれました。
 市田さんと小泉さんは手をひらひらと横に降って「問題ない」の意をあらわすと、「ほんと、空色という感じ」「高柳さん案外ロマンチストよね」とつぶやきながら、辻本さんが食べる様子を目を細めて眺めたそうです。

ページの先頭へ戻る