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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第178回 お元気で 2019/4
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 3月下旬。平日の昼過ぎ。
あと数日で看護師二年目になる笹野チエさんが、エレベーターを降りてロッカールームへと向かいながら、看護学生時代に受けた講義の中の一場面を思い出します。
「看護師は、看護した方に助けられるんです。それも絶妙のタイミングでね」
 血液内科病棟で看護師長をしている講師でした。
「どういうふうに助けられるのでしょうか?」
ある学生が質問しました。
「さて、どういうふうにでしょうね。みなさんが看護師になったら、いまの私の言葉が腑に落ちるときがきっとくることでしょう」
と言って講師はニヤリとしただけでした。ピンとこない印象があったからか笹野さんの記憶に残っています。
<私は、腑に落ちるときがこないまま看護から遠ざかってしまうんだろうか>
 心の中でそうつぶやきながら笹野さんは、ロッカールーム内に入り大きな鏡の前で立ち止まります。そして自身のユニフォーム姿に話しかけます。
<看護師姿の笹野チエさんの見納めだったりしてね…こんな感傷的な場面で涙が出てくれればいいのに>
 あれは3月15日の日勤から夜勤者への引継ぎ直前の時間でした。ベテランナースの御園さんが、となりで手を洗っていた笹野さんに低くいいました。
「来月は二年目になるんだから、今後は、なんでもひととおりできる、という接し方するからね」
「え? あっ、はい」
 御園さんはスタッフの誰に対しても厳しめの口調です。こう言われたときにショックを受けたという感覚がなかった笹野さんですが、なぜかこれ以後、業務中の彼女の眼からふいに涙がこぼれ出るようになってしまったのです。引継ぎのとき、処置の準備をしているとき、患者さんのケアをしているときなどなど。
 涙が出てくるのが<ところかまわず>であることが、本人はもちろんのこと、周囲もたいへん困惑しました。四人の新人ナースの中でいちばん手のかからないタイプと認識されていた笹野さんの涙問題は、同僚や上司、御園さんにとっても実に意外なものでした。この事態を受けて師長は、心療内科の受診と休養のためとして、急遽、笹野さんに明日から一週間の休暇を与えたのです。
 今日の彼女は午前半日勤務で、処置の準備など患者さんとは接しない業務につき、それを終えて病棟をあとにしてきたところです。今日二度、ふいに涙が出てきたのでした。
 笹野さんはこの件に大きな責任を感じており、今後、涙が出てこなくなったとしても退職しようと考えています。
 彼女はユニフォーム姿を写真に収めて置こうと思い立ち、自身のスチールロッカーのところまでゆき、ドアに鍵をさしこみます。しかしスムーズに鍵が回らず、何度か差し込み直してやっとドアが開きます。
 と、ドアが開いた拍子に白い小さな封筒が落ちました。ドアの見えない場所にでも挟まっていたようで、それとわかる圧迫のあとがあります。
 封筒のおもてには、就職した四月のうちに退職して実家に帰って行った同級生宝田さんのメモがありました。
<3年のはじめに笹野が受け持った患者の塚越さんにばったり外来ロビーで会って、笹野あてのメモをあずかったのに、それがちょうど国試直前のころで、うっかり渡すの忘れてました、ごめん! 宝田>
 メモの最後には、宝田さんが退職したころの日付が書かれていました。
 塚越さんは、彼が人工透析をはじめたころに、笹野さんが実習で受け持たせていただいた方です。和やかな雰囲気が一度も生じることがなく、受け持ちは終わりました。
<笹野さんへ あなたが受け持ってくれた塚越順一です。覚えてくれておいでですか? 風の噂で、あなたが国家試験を目前にして大学を辞めるらしいと聞いて、取り急ぎ書いています。
 あなたは優秀な学生です。受け持たれた患者としてなんの文句もつけようがなかった。でも私はそれが気に入りませんでした。透析を続けていくことになって、人生でいちばんひねくれていた時期だったのだと思います。学生をいじめてうっぷんを晴らしたかったのに。
受け持ちの最後の日の夕がたにあなたが挨拶にきてくれたとき、あなたの最後の言葉はなんと「お元気で」でした。顔には出しませんでしたが、たいへんかちんときました。これから一生、透析を続けていくだろう人間に「お元気で」はないだろうと。
 でも、それ以後、妙に「お元気で」という言葉が心に残って、自分の中でその言葉を咀嚼するように考えつづけていたら、透析している人間だって元気という言葉があてはまらないわけじゃないって思うようになり、そのうち、あなたの言葉「お元気で」に文字通り元気付けられている気がしてきまして。あのひとことで、私はあなたに看護されている、という思いにいたりました。
どうか辞めないで看護師になってください。私はあなたに看護師として働いてほしいです>
 笹野さんが、大学を辞め、国試も受けないらしい、という根も葉もない噂が立ったことがありました。それを耳にした塚越さんからの手紙でした。
読み終えた笹野さんの眼からは涙があふれ出ました。ここ数日、ふいに流れ出た涙とは通り道が違う涙であるような感覚を彼女は覚えました。そしてふたたび講師の言葉「看護した方に助けられる」を思い出しました。

 以上、一年前の出来事です。笹野さんは心療内科を受診しても、病棟でのふいの涙の原因はわからず、一週間休養をとったあと復帰し、いまも同じ病棟で看護師を続けているそうです。

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