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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第180回 退院の日 2019/6
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 夕方。A病院の回復期リハビリテーション病棟のスタッフステーションで、日勤から夜勤への引き続ぎがはじまっています。ここは二交代制です。
 日勤の下川さんが、隣に座る夜勤の安東淳子さん(45歳)にいいます。
「つぎに鴨下洋治さん。来週退院の予定でしたが、きょう、退院を半月後に延ばしたいっておっしゃって。退院するにはまだ動作に不安があるということなんですけど、具体的にどの動きが不安なのかを確認するとだまってしまって、もしかして、退院したくない理由が別にあるのかもしれないと思うのですが…。退院調整室のナースに延期希望の理由を問われたんですが、返事できなくて。
安東さん、鴨下さんとお知り合いですよね。まあ、でも、だからといって、立ち入ったことを聞くのは難しいでしょうけど」
「小さいときに引継ぎご近所でとても可愛がっていただきましたが、それだけのことですから」
「ですよね。なにかあるんでしょうかね、ご家族の都合とか」
「どうなんでしょうね」
 とこたえながら安東さんはうつむいてわずかに首を傾げました。
 鴨下洋治さん(85歳)は、自宅内で転倒しA病院に救急搬送され、骨折のため手術を実施。その後軽快してひと月半前にこの病棟に移ってきた方です。

 数時間後の時計は零時過ぎ。安東さんはラウンドの最後に鴨下さんのベッドサイドをたずねます。彼の病室は二人部屋で、同室者は外泊中です。
「父さん、起きてる?」
 安東さんは小さな声で鴨下さんに話しかけました。寝ている場合は声をかけて起こしてしまいたくないと思ったからです。
「ああ」
 といいながら鴨下さんは、ベッドライトを点けます。今夜の夜勤者が淳子さんだとわかり眠らないでいたのです。
「まだ退院したくないって日勤の人に言ったの?」
「ん? うん」
 どうして? という言葉を淳子さんは飲みこみます。
 淳子さんは鴨下さんの婚外子。父親であることを認知した鴨下さんと淳子さんは、年に一回、ランチをともにすることを続けてきました。そして時が過ぎ、シングルマザーとなった淳子さんは、鴨下さん宅から車で50分ほどの地で暮らし、そばの病院にナースとして勤務をつづけてきました。その間に彼女の母親は他界しました。
 一年ほど前のことです。淳子さんは偶然、人づてに鴨下さんがA病院に入院したことを知りました。それも危篤だと聞き、淳子さんはあわててA病院にかけつけました。
 しかし病室がわからず、受付でおしえてもらおうとしたら「許可された面会者にしか教えられない」と言われ、「実の娘です」とかえすと「ならば病室はほかの家族に電話などで確かめることができるはず」と。淳子さんは鴨下さん宅の固定電話に電話した経験がなく電話番号を知りませんでした。子供のころはいつも鴨下さんから連絡があり、今は携帯電話でやりとりをしています。よって、鴨下さん本人が携帯電話に出られない場合には、連絡のとりようがないのです。
 淳子さんは、最後には警備員に病院のそとまで連れていかれて、面会は叶いませんでした。鴨下さんが心配でたまらないのと、もしものことがあったならと不安でいっぱいでしたが、病院の職員でもある彼女は、危機管理上の対応を理解できないわけではありませんでした。なんとかツテをたどって容態確認をしたところ危篤ではないとわかり、彼女は病院をあとにしたのでした。
 その後間もなく、淳子さんは勤めていた病院を退職しA病院に就職したのです。
 一人息子が大学に進学すると同時に家を出て行き、一人暮らしとなったこともあり、通勤に時間がかかるA病院勤務が続けられると判断しました。もし、鴨下さんが体調を崩して運ばれるとしたらA病院の確率が高いのです。その際にかけつけても、本人から病室を知らされていなければ、また門前払いを受けて面会できないだろう。ならばナースとしてA病院に勤務していれば会える可能性が高くなる。そう考えて決意しました。
 そして三か月前。A病院に入院・手術したと鴨下さんから電話連絡を受けた彼女は、さっそく「知り合い」として鴨下さんを訪ね、その後勤務の前後に訪室するようになりました。
さらに、鴨下さんがこの病棟にうつってきてからは頻繁に顔をみることができるようになり、淳子さんは素直に嬉しく思っていました。退院したなら、いまのようにはちょくちょく会えなくなるため、実は、鴨下さんの退院のことを考えると寂しくて仕方ありませんでした。
<もしかして、父さんも私と少しでも長く会っていたいから退院延期を希望したのかも>
そんな思いがありますが、家族へのなんらかの気遣いなのかもしれず<どうして?>とは聞けない淳子さんです。
 淳子さんは母親から「淳子と鴨下さんは、親子ではあるけど家族ではないの」と幾度も言い聞かされて育ちました。それで淳子さんは、鴨下さんの家族に対して生じているコンプレックスのような感情をいまでも持てあましている部分があり、鴨下さんの口から家族の話を聞きたくないのです。
 その後、鴨下さんの退院延期希望の理由がわかりました。自宅に手すりをつけたり、段差をなくしたり、お風呂を新しくしたりする改修工事を行っているためとのこと。退院調整室のナースの質問に鴨下さんがこたえたのでした。

 半月後の鴨下さんの退院の日。
 鴨下さんの病室に、日勤勤務の淳子さんが向っています。鴨下さんの家族である娘さん二人が退院のお迎えにきていると同僚に聞き、淳子さんは顔を出さないつもりでいました。しかし、鴨下さんからナースコールがあり、淳子さんが呼ばれたのです。
鴨下さんの娘さんにはじめて会うことに動揺している淳子さんです。ノックして病室に入ると、娘さんらしき二人の女性がにこやかに迎えてくれて、淳子さんは慌ててお辞儀をします。
 鴨下さんがいいます。
「淳子、おまえの二人の姉さんだ。いつかきちんと会わせたいと思いながら、いまごろになってしまい、申し訳ない。退院の日に会わせるのがいちばんいいと思ってな、淳子、おまえの二番目の姉の智子が帰国するまで入院していたくてね。淳子が立派な看護師をやってて、それも担当してもらえるという奇跡が起きたんだからな。姉の二人に見せたかったんだ。退院を延期した一番の理由はそれだ。三人は姉妹、家族…」
 そこまでいうと鴨下さんは大号泣しました。

 あまりに派手に泣いているので、二人の姉と淳子さんは顔を見合わせてクスリと笑ったそうです。

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