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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第195回 大学一年生/2020 2020/9
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 七月下旬の遅い午後。
 東京郊外の某公園内。
 コロナのため稼働していない噴水に面したベンチに加藤若菜さんが、そこから3mほど離れたとなりのベンチに井上大輝さんが座っています。大学一年生の二人は、三月下旬にこの場所で出会いました。
 出会ったあの日はよく晴れた日の午後のことでした。
「あの、すみません。この噴水、どのくらいの高さまでどんな感じで水があがるんでしょうか」
 二人とも今日と同じベンチに座り、すでに停止していた噴水にしばらく向かっていたのですが、おもむろに大輝君が立ち上がり、若菜さんのそばに行き、話しかけたのでした。
「ごめんなさい。私も見たことがなくて」
「そうですか。この噴水、水がどんなふうにあがるんだろうって思って」
「私も思ってました!」
 二人は自己紹介をし合ったあと、同じバンドのファンであることがわかったりして、それからいろんな話をして意気投合。そしてここの噴水が再開されたところをかならず一緒に見ようと約束したのでした。
 加藤若菜さんは看護学生です。都内で生まれ育ち、その実家から電車で三十分ほど大学の看護学部にこの四月に入学しました。この公園には、大学に下見に来た帰りにふらり寄ってみたのでした。
 井上大輝さんは理学部の学生です。中国地方で生まれ育ち、大学入学のために三月中旬に上京し、この公園の近くでアパート住まいをはじめました。コンビニなどの位置確認をしている途中で一休みするためにこの公園に寄ったのでした。
 そしていま、二人はLINEでやりとりしています。ともにマスクを着けてはいるものの、大事をとって会話をさけているのです。
<考えてみるとね、私、これまでの人生で、噴水をまじまじと見たことがないの>
<まあ、オレもだけど>
<だからね、噴水で上がった水のいちばん上の部分はどんな形になるかわからないんだよね>
<へえ>
 今日の大樹さんの返しは、なんとなくぶっきらぼうです。彼は最近、ときどき言葉が乱暴になったり、ものすごく長文を書きこんだりして、なんとなく不安定なのです。
 若菜さんは、大輝さんにコロナに感染してほしくないと強く思い、出会ったときから直接会話するのを最低限にしようと提案したのでした。実家への帰省をさけなければならない大輝さんが感染し、無症状で自宅療養などになったら、慣れない地で慣れない住まいで、それも一人での療養はたいへんだと思ったのです。
 それで、LINEで頻繁にやりとりしながら、ときに料理や食材を渡したりと、若菜さんはできることを行ってきました。
 5月からは大輝さんの大学ではオンライン講義がはじまり、若菜さんの大学ではオンラインと登校の講義が半々となり、お互いに励ましながら過ごしてきたのですが、7月に入ったころから大輝さんは、過密なオンライン講義の内容やあり方へ批判的なことをLINEに書くようになりました。
 そしていまから一週間前の深夜、大輝さんからLINEで「話したい」と連続して5回届き、それに若菜さんは明け方に気づき、とにかく彼に電話しました。大輝さんのオンライン講義やレポートなどが詰まっておりたいへんだと知っていたので、その邪魔にならないよう、いつもは極力電話をしないように務めていた若菜さんでしたが、急を要すると感じたのです。
 しかし、電話に出た大輝さんは「なんだよ」と乱暴に言って電話を切ったのでした。
 若菜さんはさすがにむっとしました。心配して電話したのに…。どうして? せめて、あとにしてほしいとか、都合のいいときに掛け直すとか、言ってくれてもいいんじゃない? 
 もやもやした若菜さんは、自分からはLINEも送らないでいたら、彼からのLINEもなく数日が過ぎました。そして、その後やりとりは再開したものの、大輝さんの返信はぐっと少なくなりました。
それを受けて彼女は、過去に交際相手に「自己満足のやさしさみたいのが負担なときがあった」と言われてショックを受けたことを思い出し、大輝さんにもそのような対応をしてしまったことが原因で嫌われたのではないかとひどく不安になったのです。このままだと大輝さんとの関係が途絶えてしまうかもしれない、どうにかしなければ、と思うものの、どんなタイミングで、どんな言葉をLINEに書けばいいかわからなくなりました。看護師を目指すことにもどんどん自信がなくなっていきました。
 そんななか彼女は、オンラインで受けた特別講和のなかで先生が何気なく発した言葉が深く胸に刺さりました。
「人にやさしくするときに、自分の心が揺れてはならないんです。自分が不安になってしまってはダメ。なぜ、その人にやさしくしたいのか、労わりたいのか、その理由を冷静に認識する必要があります」
 とにかくは、自分が揺れていてはダメなんだな、と若菜さんは思いました。大輝さんが好きだから、心配だから。心の中でそうつぶやいたあと、深呼吸をし、冷静になって改めて大輝さんについて考えたなら以下のようなことが見えてきました。
 大輝さんは、コロナ禍の大学一年生としてストレスフルになり、心身不調が進んでおり、余裕がなく自分らしさを失っていることさえ気づいていないのかもしれない。彼は弱っている。それを客観的に確認したほうがいい
 若菜さんは意を決して、離れたベンチに座る彼にLINEをおくります。
<これからそばに行きます。会話はしないけど、顔を見せてほしい。お願い!>
 すると大輝さんは顔をあげて目を丸くし、圧倒されたようにわずかに頷きます。
 若菜さんはすぐさまそばに行き、彼に一瞬マスクを外してもらって、顔を観察。そして、彼の眼が少し充血していることや、目の下にクマが生じていることなどを確認すると、彼にマスク付けてもらい、ふたたび元のベンチに戻り、LINEに書き込んだのです。
<睡眠不足が続いているでしょ。このままだと病気になってしまう>
 出会って、やりとりをはじめた当初、大輝さんが、オレはたっぷり寝ないとダメなタイプだと言ったことを若菜さんは覚えていました。授業を受けて課題をしていると連日深夜までかかるとも聞いていました。さらに彼のLINEに書き込む時間から推測するとかなりの睡眠不足と考えられ、それが顔に出ていることを確認したのです。
 若菜さんは、大輝さんの睡眠不足改善のために熱心に協力しました。

 それからひと月たった8月下旬、二人はまた噴水の前のベンチに座っています。まだ噴水は再開されていませんが、大輝さんのほうから噴水前に行こうと誘いがありました。彼は大学に相談したりなどして睡眠不足を改善することができました。
 大輝さんの書き込みがLINEにアップされます。
<こないだ、たまたま新聞で読んだ短歌を書いていい?>
<ぜひぜひ>
<噴水の伸びあがりのびあがりどうしても空にとどかぬ手のかたちする 杉崎恒夫『食卓の音楽』
ちゃんとした短歌の鑑賞はできないけど、なんか、いいなって>
<うん。いちばん上のところ、手を伸ばしてるようなかたちに見えるかな>
<噴水が再開したら、それをいちばんに確認しよう>
<だね>
 二人は顔をあげてピースサインを出し合ったそうです。

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