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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第204回 看護師なんて嫌い! 2021/6
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 「看護師なんて、大嫌いだー」
 介護福祉士の山田花梨さん(24歳)は、休みだった昨日、一人、車を運転して誰もいない小高い丘に行き、そう叫んだのでした。彼女は、三か月前に特別養護老人ホーム「ヤマブキ」で働きはじめました。

 夕方。勤務を終えた花梨さんは更衣室に行く前に手洗いをしながら心の中でつぶやきます。
 <昨日は、兼高美恵子が嫌いだって叫べば、もっとすっきりしたかな。違うか>
花梨さんは、ヤマブキの前に働いていた特別養護老人ホーム「しらゆき」の看護師たちの顔を浮かべ、眉間に皺を寄せます。
彼女は「しらゆき」で看護師らが介護職全般を見下しているように感じ、これ以上看護師を嫌いになりたくないと考えて退職し、少し休んだのちヤマブキに入りました。今度の施設でなら、看護師に嫌悪感を抱かなくて済むかもしれない、という思いがありました。
 しかし期待外れだったのです。
花梨さんに一週間遅れて、看護師の兼高美恵子さん(45歳)が、少し早めに退勤するパートとして入職。花梨さんが業務で接することが多い看護師は、この兼高さんになりました。看護師への嫌な先入観にとらわれて接してはよくない、と考えや上に、穏やかな雰囲気で、自身の母親を若くしたような風貌にも親近感を覚え、兼高さんの出勤初日に彼女のロッカーにメモを差し込みました。次のように書いて。
<私も一週間前に入ったばかりです。よろしくお願いします! 山田>
 職員用更衣室のずらり横に並んだロッカーの右端が花梨さん用で、ちょうど空いていたその左隣が兼高さん用になっていました。
 その翌日、兼高さんに笑顔で「メモ、ありがとうございます! 同期ですね。よろしくお願いします」と声をかけられて花梨さんは嬉しくなりました。
 しかしその翌日、兼高さんがロッカーを花梨さんのところとはいちばん遠い左端のほうに移動したことを知り、彼女はもやっとしたのです。<口ではよろしくなんて言ってたけど、私と距離を置きたいのかも>と。
 そのとき花梨さんは、母親の顔がふと浮かんだ頭を大きく横にふりました。
<だめだめ。お母さんとだぶらせては>
 花梨さんは母親に対しての葛藤を抱えています。看護師である彼女の母親は、夫を早く亡くして以来、花梨さんをひとりで育てました。花梨さんは、器用で気丈で頑張り屋の母親が大好きな反面、不器用でさびしがり屋な自身と比較していつしかコンプレックスを持つようになり、母親がたまに見せるドライな態度に突き放されたような感覚を覚えるようになりました。そして大学四年のときに、母親に交際相手がいるとはじめて知った彼女は、卒業と同時に家を出ました。一人暮らしを猛反対する母親と大げんかをしてです。
 
 花梨さんがヤマブキに入ってひと月ほどたったころ、利用者の男性・Aさんの転倒がありました。花梨さんが対応していた時の出来事です。幸いAさんに怪我はありませんでしたが、インシデントレポートを提出した花梨さんに上司は少々厳しく指導しました。看護師からの注意喚起を頭に入れていなかったことを中心にです。
 Aさんは風邪薬の内服をはじめているため、ふらつきが出るかもしれない、と朝のミーティングで兼高さんが話したことを、花梨さんはほかの点に気をとられており、すっかり忘れていたのです。
 花梨さんはその日、大いに凹み、その気持ちのまま勤務を終えて自身のロッカーのドアを開けると、いつのまに差し込まれたらしいメモ紙がはらりと落下。
 <あさのちゅういかんきをむにした きんちょうかんがたりないからだ>と書かれていました。決めつけてはいけない、と思いつつも、兼高さんの顔が彼女の頭に浮かびました。
 その後、花梨さんのロッカーにときどきひらがなだけで書かれたメモが入るようになりました。食介の時の表情がよくないとか、ユニフォームを一つ大きいサイズにしたほうがいいとか、勉強が足りない、といった内容でした。兼高さんとは、表面的にはにこやかに接していた花梨さんですが、メモの主は兼高さんしか思いあたらず、心中ではどんどん彼女を嫌いなっていったのです。

 手洗いを終えて更衣室に入った花梨さんがロッカーのドアをあけると、するりとメモ用紙が落ちます。あっ、まただ。なんなのよー。と胸の内でつぶやいて、それを拾い、ひらがなのみのいつもの批判的な言葉を読みます。すると疑問が生じます。花梨さんが出勤して着替えた朝にはメモがなく、そのあとに誰かが入れたことになるのですが、今日は兼高さんは休みで出勤していないため、メモを入れることができないのです。
 ん? それじゃ、兼高さんじゃなかったの?
 そこへ、OTの西條さんが勤務を終えて入ってきて、着替えをはじめます。
 ロッカーのドアを開けたまま、着替えをはじめずに立っている花梨さんに、西條さんが声をかけます。
「どうした? 疲れ果てちゃった? あっ、そういえば、ごめん、忘れてた! 昨日、帰りがけの兼高さんからあなたに渡してほしいってメモを預かってたんだっけ」
<介護職ならではのBさんにかんするあなたの記録がとても参考になって、Bさんの変調を早めに察知することができ助かりました。施設長にもそのこと伝えました。ありがとう! 引き続きよろしくお願いしますね。同期の兼高より>
 嬉しい文面で、花梨さんの胸の内側がじんわりあたたかくなります。
 そして、兼高さんはひらがなメモの主ではないのかも、と思えてきます。日頃の記録はすべてパソコン入力のため、兼高さんの自筆文字をはじめて見たのですが、例のひらがなメモと筆跡が違うのです。また、ひらがなメモはいつもボールペンの青色で書かれていますが、兼高さんのメモはボールペンの黒でしかもとても線が太いのです。西條さんに何気なく聞いたら、兼高さんは太書きタイプの黒一色のボールペンをいつも使っていることが判明。花梨さんは、西條さんにさらに聞きます。
「そういえば、西條さんの左隣が兼高さんのロッカーですよね、はじっこが好きなのかなあ」
「知らない? 兼高さん、左利きだから、左端のほうが周囲に気兼ねなく着替えができるんだって」
 それを聞いて花梨さんは、兼高さんを疑っていた自分、看護師を漠然と嫌っていた自分に疑問を感じはじめました。

 以上、一年前の話です。
 この出来事をきっかけに花梨さんは、心が安定するようになった気がしているそうです。そして、連絡をとらなくなっていたお母さんとも、その後やりとりを再開したとのことです。
 ひらがなメモは、ある時期からぱたりと入れられなくなったとのこと。善意のメモだったことにして、誰が書いていたのか考えるのはやめたのだとか。

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