厚生労働省も推進する「患者の価値中心」の医療とは
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患者中心の医療を実現する「ペイシェント・エクスペリエンス(PX)」=「患者経験価値」という考え方は、1980年代ごろにイギリスで生まれました。その後、海外では広く浸透し、欧米・北欧諸国では政府主導でPXを推進しています。国を挙げて、統一指標による「PXサーベイ(調査)」を実施しています。一方日本は、世界の潮流から取り残されています。しかし、2015年に厚生労働省が発表した「保健医療2035」では、2035年に向けて医療を「患者の価値中心」「質の改善」「ケア中心」にシフトする方針が提示されました。PXは、日本の医療がこれから進む方向性と重なりますし、後述する日本版PXサーベイについて、医療機関からの問い合わせも増えています。
私がPXに着目したのは、2015、16年のことです。当時、私はコーチング企業に在籍し、医療機関におけるコーチング導入支援をしていました。看護師の離職率低下や、患者さんに選ばれる病院になるべく、医療スタッフのコミュニケーションを向上させる仕事を行っていたのです。コーチングの成果指標の一つに職員満足度・患者満足度向上があり、事例を探していたのですが日本国内にはモデルケースが見つからなかったため、アメリカにおける成功事例を調べたところ、PXというキーワードが浮上。患者満足度を上げるにはPXを高めることが必須との考えのもと、PXを向上させる施策に取り組んでいることがわかりました。また、PXを向上させることで職員の離職率が下がったり、医療の質が向上したりなど病院経営にもメリットがあるとわかったのです。
そこで東海大学 血液腫瘍内科教授 安藤潔先生など数名の有志で、2016年にPX研究会を発足。2018年には社団法人化し、現在会員数は195名にのぼります。医療関係者、製薬会社や医療機器メーカーの方々だけでなく、新規事業としてヘルスケアに取り組む一般企業の方々もメンバーに加わっています。
「PXサーベイ」により、医療現場の課題をあぶりだす
PX研究会の活動は、主に3つあります。
・イベント事業
年に一度「PXフォーラム」を開催するほか、オンライン寺子屋(勉強会)などを通じてPXについて学ぶ機会を設けています。
・アカデミック事業
入院・外来患者向けの「PXサーベイ」を開発しています。また、PXサーベイの取り組みや成果効果について論文の執筆や学会での発表も行っています。
・教育事業
医療現場や職場でPXを向上させる人材を育てるため、2019年度から「PXE(Patient eXperience Expert)養成講座」を開催しています。
アカデミック事業の一環としてPX研究会が提供する「PXサーベイ」は、現在、全国約60の病院で導入されています。主な「PXサーベイ」には約30項目からなるアメリカ版、約60項目のイギリス版があり、世界的に普及しているのはアメリカ版です。しかし日本の場合、医療制度がイギリスと似ているため、PX研究会ではイギリス版を翻訳し、日本の医療状況に即した設問票を開発しました。
「PXサーベイ」は、PX研究会の公式サイトからダウンロードし、印刷して使用できます。「手指消毒液は、患者や来訪者が使える状態になっていましたか?」「あなたがナースコールを押してから実際に職員が来るまでどのくらい待ちましたか?」「職員は、薬の服用方法をあなたがわかるように説明しましたか?」など、患者満足度調査に比べてより客観的な設問に対し、選択肢をチェックして回答する形式になっています。
▲患者満足度(左)とPXサーベイ(右)
「質問項目が多すぎて、年配の方には難しいのでは?」というご意見をいただくこともありますが、ある病院では、患者満足度調査から「PXサーベイ」に切り替えたことで設問数が2倍に増えたにも関わらず、回答率はむしろ上昇しています。ほかの病院でも、年齢を問わず、多くの患者さんが回答しています。
現場看護師の中には、「PXサーベイ」を実施することで課題が明るみに出て、それを改善するために業務がより忙しくなるのではないかと心配する方もいます。ですが、この調査には不要な業務をなくし、効率化を図るという側面もあります。例えば「職員は、薬の服用方法をあなたがわかるように説明しましたか?」「職員は、服用する薬の副作用を伝えましたか?」という質問に対する回答には、「説明は必要なかった」という選択肢もあります。「説明は不要」という回答が多ければ、業務の見直しにもつながります。こうしたアンケート結果の分析も、PX研究会で請け負っています(現在サーベイ分析自動化に向けたシステム開発中のため、受託を一時停止中)。
PX研究会が開催するPXE養成講座では、PXを普及させるエバンジェリスト(伝道者)を育成しています。第2期となる今年度の講座には、勤務する病院にPXを広めたいと考える医療従事者、PXを意識した商品開発を検討している医療機器メーカーの方々など、約30名が参加しています。医療従事者は、臨床医や看護師だけでなく、薬剤師、リハスタッフ、病院事務職など、顔ぶれも多彩です。全5回の講座でPXの概論、患者満足度調査との違いや事例などを学んでいただくうえ、入院から退院までのプロセスを患者さんの視点で俯瞰し、改善点を洗い出すワークショップも取り入れています。さらに、コーチングで患者さんのニーズを引き出すトレーニングも行います。すべての講座を受講し終えたら、資格認定試験を受けていただきます。
講座に参加した看護師からは、「急性期病院の業務は忙しく、患者さんの個別ニーズまでは考えられなかった。患者さんの視点に立てたことで、原点を思い出した」「患者さんのニーズをまったく引き出せていないことに気づかされた」「看護師同士で看護観を語り合う必要性を感じた」という声も届きました。PXの考え方を身につけることで、普段の看護業務にも良い影響を及ぼしたようです。
※PXサーベイのダウンロードはこちら
患者さんと医療従事者、双方の満足度を高めるために
PX研究会では、「PXサーベイ」による課題の可視化、PX改善、病院の構造改革という3つのステップによる「PXマネジメント」を推進しています。とはいえ、2018年に「PXサーベイ」を公開したばかりですし、コロナ禍の影響で病院のマンパワー不足のため、まだ病院のPX改善や構造改革にまで至ったケースはありません。ただ、「PXサーベイ」の結果を見ると、多くの病院で医師や看護師との対患者コミュニケーションに改善の余地があることがわかってきました。今後はこうした調査結果をPX改善につなげ、患者さんにより満足していただける病院づくりをサポートしていきたいと思います。
そのためには、まずPXの認知度を高めることが必要です。オンライン寺子屋などのイベント事業を継続しつつ、来年からは「PXサーベイ」で優れた調査結果が出た病院にインタビューに行き、どのような取り組みをしているのかヒアリングし、ベストプラクティスを見つけて展開していこうと考えています。
また、PXを高めると同時に、医療従事者の「エンプロイー・エクスペリエンス(Employee eXperience;:EX)」、つまり「従業員経験価値」を高める活動も行っていきたいと思います。病院スタッフがやりがいをもって働けば、患者さんにもよりよいサービスを提供できます。イギリス政府の国営医療制度「ナショナル・ヘルス・サービス(National Health Service; NHS)」によると、エンゲージメント(職場に対する愛着、働きがい)の高い看護師は離職率が低いそうです(※3)。また、アメリカのビジネス誌「ハーバード・ビジネス・レビュー」の調査では、PXと職員のエンゲージメントが上昇すると病院の評価が向上し、その結果、病院の利益率も増加するという結果が出ています(※4)。そのため、日本の病院でもEXを高めるために、「EXサーベイ」を開発したいと考えています。PXとEX双方のデータを取得できれば、病院の改革に向けて新たな取り組みが進められるのではないかと思います。
※3 出典:https://www.kingsfund.org.uk/sites/default/files/employee-engagement-nhs…
※4 出典:https://hbr.org/2019/05/when-patient-experience-and-employee-engagement-…
PX研究会では、こうした活動を通じて日本の医療保険制度の改革を目指しています。病院の顧客は、患者さんです。患者さんのニーズに応える努力をしている病院に、もっとスポットライトを当てたい。そのためにPXの高い医療機関には診療報酬等でインセンティブをつけたいと願っています。将来的には「PXミシュラン」のように、患者さんが病院を選ぶ際の指針になる評価制度を作れたらうれしいです。