外来・入院患者の「経験価値」を聞き、業務改善や向上に役立てる
「ペイシェント・エクスペリエンス(PX)」と聞いても、ピンと来る方はまだ少ないのではないでしょうか。「PX」──日本語では「患者経験価値」と訳されており、「患者が医療サービスを受けるなかで経験するすべての事象」と定義づけられています。
PXでは、ある患者さんが入院してから退院するまでに経験する、診察、院内の移動、食事、手術、リハビリなどさまざまなプロセスを評価します。患者さんがどのような場面で、どのような医療サービスを、どの程度の頻度で受けたのか。受けたサービスは、患者さんにとって最適だったのか。PXの尺度を使用したサーベイ(調査)を通じて患者さんのニーズを汲み取り、業務改善を行うことで医療の質向上につなげる取り組みです。
日本では現在、多くの病院で患者満足度(Patient Satisfaction:PS)調査を実施していますが、これはPX調査とは異なるものです。PS調査では、「入院中の食事はいかがでしたか?」「看護師の対応はいかがでしたか?」など、患者さんの主観による回答から満足度を測ります。一方、PX調査では、「入院中の食事に関して、あなたの意思を尊重されましたか?」「食事の際、職員から十分なサポートを得られましたか?」など、患者さんの経験を尋ねるためより客観的な回答が得られます。そのため、PX調査はPS調査よりも具体的な課題が浮き彫りになりやすく、調査結果が改善に向けた取り組みにつながっていきます。
▲患者満足度調査(PS)とPXサーベイのアンケート質問例
海外の事例では、患者さんのクレームが減ったり、離職率が下がったりと、病院スタッフにとってもプラスの効果があったそうです。さらに在院日数の短縮や医療ミスの減少など病院経営にも大きなメリットがあるとされています。
欧米では、PXが病院経営の最優先課題
PXの考え方は1980年代のイギリスの医療制度改革から生まれ、2002年に国主導でPXサーベイが実施されました。2006年にはアメリカがPXサーベイを実施し、現在はイギリスを超える勢いでPXに関する取り組みが積極的に進められています。2010年以降、ノルウェー、フィンランド、スウェーデンなどの北欧やオーストラリア、カナダ、ニュージーランドにも広がりました。各国とも政府主導でPXを推進し、年に1~4回のPXサーベイを実施しています。さらに、イスラエル、サウジアラビア、UAE、インドのほか、中国、シンガポール、タイなどアジアでもPXの研究・推進がなされています。
特に欧米ではPXが浸透し、医療機関の経営トップの約90%が「PXは最優先課題の1つである」と回答しているほどです(※1)。アメリカでは院内にPX向上のための部署を設置する病院も多く見られます。世界最大手のコンサルティング会社・アクセンチュアは、「PXがとても高い病院はPXが平均的な病院よりも利益率が高い傾向にある」と指摘しています(※2)。PXによって患者さんのエンゲージメントを見直すことは、医療の質を高めつつ結果として無駄を省くことにもつながります。
一方、日本では医療保険制度のもと、医療や病院のサービスが均質化され、PXという考え方がなかなか普及しませんでした。医療を取り巻く環境の変化に伴い、今後は流れが変わることが予想されます。その根拠となるのが、2015年に厚生労働省が提示した「保健医療2035」です。この提言書の中で、厚労省は2035年に向けた課題解決に必要な要素として、「質の改善」「患者の価値中心」「ケア中心」を掲げています。患者が必要なときに、必要な医療を提供するPXの考え方に沿った内容であり、そのような新しい医療をつくっていくためにPXが活用できると考えます。
※1 出典:The 2009 HealthLeaders Media Patient Experience Leadership Survey
※2 出典:https://newsroom.accenture.com/news/us-hospitals-that-provide-superior-p…
医師版「食べログ」や健康管理アプリを開発 海外のPX先進事例
では、PX先進国であるアメリカでは、どのような取り組みが行われているのでしょうか。全米病院ランキング第2位(「U.S.News&World Report’s」発表)に選ばれ、世界で最もPXに注力している病院のひとつであるクリーブランド・クリニックの事例を紹介しましょう。
PXの向上には、3つのフェーズがあります。最初のステップは、PXサーベイや患者インタビューによる課題の“可視化”です。第2のステップは業務改善、人材育成などによる“PX改善”。そして最後のステップは、病院全体の“構造改革”です。クリーブランド・クリニックは、3つのステップすべてを実施しています。
第1ステップで行うPXサーベイをアメリカでは年に一度、政府主導で実施しています。約30項目の質問からなるPXサーベイ「HCAHPS(エイチキャップス)」に加え、クリーブランド・クリニックでは独自の設問を追加した約60項目について患者さんに聞き取りをしています。その調査結果を分析し、患者さんのニーズ、病院の課題を洗い出していくのです。
そのうえで、コンサルティング会社に依頼し、PXの低かった救急部門について調査を行ったそうです。当初、救急部では「待ち時間が長いため、患者さんの満足度が低いのではないか」と仮説を立てていました。しかし救急部のPXが低かった要因は、思いやりのあるケアの不足だったことがサーベイ結果から判明。つまり救急部のスタッフは、患者さんのニーズを読み違えていたのです。こうした事実が、“可視化”のフェーズでわかってきました。
この結果を受け、救急部では清掃や事務スタッフによる声掛けを始めました。救急の待合室では、患者さんがみな「病状が悪化したらどうしよう」「私はいつ受診できるんだろう」と不安を抱えながら順番を待っています。そんな患者に対し、通りがかった清掃や事務スタッフが「何かお手伝いできることはありますか?」と声を掛けることに。ささやかな改善ではありますが、翌年のPXサーベイでは評価が向上したそうです。調査によって、患者さんのニーズを拾うことができた好例と言えるでしょう。
第2ステップの「業務改善」においては、コーチングに注力しました。職員間でのコミュニケーショントレーニングやピア・コーチング(仲間同士のコーチング)を行うことで、燃え尽き症候群が改善したり、共感能力が上がったり、職場への愛着が増したりする効果があったそうです。なかでも、「あの先生から指導を受けたい」など院内で互いにコーチをしあうピア・コーチングが好評で、この取り組みによって退職を踏みとどまった医師もいるとのことでした。
ハード面では、患者さんを楽しませる空間づくりに力を入れました。同院では「アートは患者さんの心を癒す」という考えのもと、院内の随所にアートを取り入れています。そのうちの一つが小児科のロビーへのプロジェクションマッピング導入です。最上階のラウンジには、好奇心をくすぐる小窓があり、覗き込むとクリニックの模型が見られるという仕掛けもあります。治療(Cure)とは直接関係ない設備ですが、患者さんを少しでもケア(Care)することで、PX向上に努めています。
第3ステップの構造改革においても、ユニークな取り組みに挑戦しています。そのひとつが、口コミグルメサイト「食べログ」のように患者さんが医師を評価する仕組みです。クリーブランド・クリニックの患者さんは、受診した医師に対し、説明、傾聴、患者の尊重、病歴の理解など6カテゴリについて点数をつけ、評価することができます。その結果を病院ホームページで公開しているため、これから受診しようという患者は、「食べログ」でレストランを選ぶように、どの医師に診てもらうか選択することができるのです。サイトで口コミ評価をチェックし、そのまま同サイトから診察を予約することも可能です。
さらに、アプリの開発も行っています。同院が提供する患者ポータル「MyChart(マイチャート)」を利用すれば、血圧や体重といった自身の健康データをチェックできるのはもちろん、処方薬の追加購入、診察予約なども行えます。また、担当医とチャットができる機能も搭載されています。このアプリは大変好評で、利用者は200万人を超えているそうです。
こうした事例からもわかるように、PXとは単に患者さんにPXサーベイのような院内での経験に関するアンケート調査を行うことではありません。患者さんのニーズを把握し、患者経験価値(PX)を上げると同時に職員経験価値(Employee eXperience:EX)も向上させることで、病院のロイヤルティを高めることがPXとも言えるでしょう。
後編では、日本におけるPXの現状、看護師がPXを学ぶべき理由についてお伝えします。