インタビューアーカイブ

2021/5

災害時の要援護者・障がい者支援の過去と今 障がい当事者が語る、スムーズな支援のために高めていくべき「力」とは

東日本大震災から10年。被災地の復興とともに、多くの人が当時の災害対策や避難行動の振り返りと改善に努めてきました。そんな中、注目されるようになったのが災害時の要援護者・障がい者支援です。人々の支援に対する意識は、昔と今はどのように変わっているのでしょうか。自身も障がい当事者でありながら、障がい者福祉・地域福祉に関する研究をしている有賀絵理氏に、「災害時の要援護者・障がい者支援」の昔と今についてお話しいただきました。

有賀絵理氏

公益社団法人 茨城県地方自治研究センター 研究員

一人ひとりに寄り添っていきたい。
災害を経験して見つけた自分の使命

私は、重度身体障がい者としての経験や体験を生かしながら、障がい者福祉・地域福祉関連の仕事をしています。メインの活動は、公益社団法人 茨城県地方自治研究センターの研究員として研究をしたり、行政が障がい者に向けた施策をつくる際へのアドバイスや、相談に乗ることです。そのほかにも、厚生労働省や国土交通省などからの依頼でバリアフリーの推進に取り組んだり、幼稚園、小学校、中学校、特別支援学校からの依頼で、教職員の相談に乗ったり、障がい児を持つ保護者やご本人のカウンセリング、学校に行けない子どもや学校の授業で落ち着かない子どもを持つ保護者の相談に乗ったりと、活動範囲は多岐にわたります。

私が障がい者福祉で力を入れているのが「災害時の要援護者・障がい者支援」の研究です。災害福祉広域支援ネットワーク・サンダーバードという認定NPO法人の理事も務めており、災害関係のイベントへの出席や、講演、研修会の活動もしています。

災害時の支援について研究を始めた大きなきっかけとなったのは、大学時代に経験した災害でした。1999年9月30日。茨城県東海村でJCO臨界事故という原子力災害が起きました。当時大学生だった私は、「外に出てはいけない」程度の認識でいたのですが、母に「今日だけではなく、一週間くらいは外に出られないかもしれない。もしかしたら一時的にここから離れないといけないかもしれない」と聞かされ、「呼吸器をつけている友人のAさんは逃げられるのだろうか」「ベッドに寝た切りで生活をしている知り合いのBさんは避難できるのだろうか」ということがふと頭をよぎりました。

事態が落ち着いた後、過去の災害では障がい者は、特に重度障がい者はどのように避難していたのか、調査研究を始めました。障がい者団体をはじめ、障がい当事者やその家族を訪ね、一人ひとりの話を聞いて廻ったのです。その過程でとても衝撃的だったのは「障がい者は、災害が起きたら“死ぬ”ことしか考えていない」「まして車いすやストレッチャーに乗っていたら避難所で場所を広く使ってしまうから、避難所に行かないほうがいい」という発言がとても多かったこと。私も障がい当事者として車いすが手放せませんが、多くの方の悲観的な言葉に非常に驚きました。しかし、その言葉がきっかけとなり、私は災害要援護者・障がい者の支援についてより深く研究していくことになりました。

その後も足しげく、災害経験のある障がい者や関係者のもとに調査に通いました。「どうせうちの子をたすけてくれる人はいないだろう」「死んだほうが楽だ」という生々しい声を聞いたとき、とてもショックだったとともに、とても嬉しかったことも覚えています。それは、ある方が「今まで、様々な人が話を聞かせてほしいと障がい者に興味津々にきましたが、あまり話はできませんでした。でも、あなたには正直に話しができます。それは、あなたも障がい者だからこそ、私たちの気持ちをわかってくれると思いますから…。」と災害時の状況を話してくれたのです。本当は災害を経験された方々の口から、感じていることを直接広めてほしいものですが、障がいがあることや、障がい者が家族にいることを公言していない人も多くいらっしゃいます。

そのときに、私には、人々から聞いたこと、知ったこと、学んだことを社会に広めていく務めがあるのではないかと気付きました。障がい当事者の私だからこそ耳を傾けてくれる人がいたり、誰にも言えないことを打ち明けてくれる人がいるのであれば、全力で応えていくことが私の使命だと信じ、日々研究に励んでいます。

 

あの日から学んだこと。
変わってきた人々の意識

もう一つ私が体験した大きな災害が東日本大震災です。この震災をきっかけに、災害時の要援護者・障がい者支援が注目されるようになったといっても過言ではありません。

地震が発生した3月11日、私は自宅にいませんでした。障がい福祉の活動に没頭するあまり、体力が限界を迎えて2月26日に倒れてしまったのです。救急車で病院に運ばれて、そのまましばらく入院。そうして入院したまま3月11日の14時46分を迎えました。3分ほどの揺れでしたが、とても長く感じたのを覚えています。

病院も大混乱でしたが、主治医の先生のご厚意でライフラインが復活するまで入院させていただきました。3月下旬頃に退院し家に帰ると、瓦屋根は落ちて、部屋はぐちゃぐちゃ。本棚も食器棚も全部倒れていて、もし私が自宅にいたら生き埋めになっていたかもしれない状況でした。さらに、避難所に指定されていた近くの小学校は、当時車いすでは入れなかったので、もし避難したとしても避難所に入れなかったかもしれません。また、ライフラインのない状態で生活をしていたら別の病気にかかったりと、家にいれば無事ではなかったかもしれません。

東日本大震災では、障がい者の死亡率が沿岸地域では被災住民全体の2倍にのぼったこともあり、行政をはじめ、地域の民生委員や市民の方々の「障がい者について知りたい」という意識が高くなったと思います。たとえば、さまざまな自治体が私を招いてくださるようになり、障がい者避難についての講演会や研修会の講師依頼を幾度となくいただきました。さらには、ある地域の方々の依頼により、地域住民が協力し、地域にいる障がい者をベッドから移乗させて、車いすを押し、避難所まで避難をするという避難訓練のアドバイザーを行ったという事もあります。震災を機に、一般の方が近くにいる障がい者をたすけようとする意識が増えたのは確かでしょう。

 

大切なのは
支援力と受援力のバランス

障がい者を支援しようというさまざまな取り組みを通して「支援力」が高まる一方で、私がぜひ伝えたいことは、支援力が高まっても、「受援力」がなければ、たすかる命をたすけることができないということです。受援力とは「援護」を「受ける」力。つまり、たすけが必要な時に人に頼ったり、自らたすけを呼ぶ力です。過去にも、たすける側が積極的に行動する中、たすけてもらう側の受援力が低いために意思疎通がうまくいかなかった事例がたくさんありました。

私が実際に聞いた話を一つご紹介します。ある大きな災害が起きた際、社会福祉協議会の職員さんがある高齢者のところへ安否を確認しに行くと「来てくれて、ありがとう。怪我している、たすけてー」と泣いて訴えてきたそうです。しかし調査したところ、実は、その高齢者のところに社会福祉協議会の職員さんが行く前に、最低でも3人以上が「どうしましたか」「大丈夫ですか」などと声をかけていたことが判明したのです。声をかけてくれた人たちに対しては、その高齢者は怪我して身動きが取れなかった状態にも関わらず「大丈夫です」と言い切り、最後に顔見知りの社会福祉協議会の職員さんが来たことで、初めて正直に困ったことを訴えたそうです。

災害という緊急事態にもかかわらず、他人に対して正直に言えず、持ち前の我慢強さを発揮してしまったのでしょう。もしも、顔見知りの人がたすけに来ず、誰にもたすけを求めないままでいれば命の危険もあったかもしれません。私は「支援力を伸ばしていこう」ということばかりではなく、「困っているときにたすけを受ける力、受援力を伸ばそう」という訴えかけも必要になってくると考えています。

先述したように、障がい者の家族の中には、自分の家族に障がい者がいることを公開しない場合も非常に多くあります。東日本大震災後、支援力が少しずつ高まっている一方で、受援力の低さはなかなか高まらないように感じています。

大きな原因は「たすける側」「たすけられる側」という意識が根付いているということです。「たすけてあげる力のある人」と「たすけられることが当たり前の弱い人」とジャンル分けすることで、非障がい者は無意識のうちに差別してしまい、障がい者やその家族は自身の存在に負い目を感じてしまうのでしょう。そこで、私は講演などの活動を通して、必ず、「こころのバリアフリー」と「人間力の向上」を提唱しています。

後編では、有賀氏が提唱している「こころのバリアフリー」と「人間力の向上」について詳しくお話をうかがいました。災害時に、非障がい者・障がい者がそれぞれ意識すべきこと、そして、医療従事者にできることとは一体何なのか。障がい者福祉の現状と、これからについてお伝えします。

有賀絵理

公益社団法人 茨城県地方自治研究センター
研究員

自身の障がい当事者としての体験・経験を生かした研究をもとに、国内外問わず活動している。専門は「障がい福祉」「地域福祉」。著書に『災害時要援護者支援対策―こころのバリアフリーをひろげよう―』(文眞堂)。

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