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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第173回 目の充血 2018/11
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 朝。
「おばあちゃん! 理由を言ってくれないと困るの。気まぐれで休みますなんて言えないでしょ」
「…………」
 おばあちゃん、と呼ばれたのは新田ミヨ子さん(87歳)。彼女は目を閉じて、居間の座布団上に正座しています。白髪を黒いカチューシャできちんとまとめて。
「昨日、寝る前まで、行かないなんてひとことも言ってなかったじゃない。体調が悪いようには見えないけど。ダンマリはやめてなにか言ってよ」
 と言って口を尖らせるのは、ミヨ子さんの一人娘の順子さん(58歳)です。
「じゃあ、言うけど」とミヨ子さんは目を閉じたままいいます。「実の母親をおばあちゃんと言うのはいかがなものか」
「はあ? 沙樹が生まれて以来、ずっとおばあちゃんって呼んでるじゃない」
 沙樹さんは順子さんの娘、つまりミヨ子さんの孫です。
「いままではそうだったけど、いまのこの家のおばあちゃんは、あんたでしょ。茉莉が生まれたんだから」
 といってミヨ子さんは薄く目を開けてちらと順子さんを見ます。少し目が充血しています。ふたたび瞼を閉じます。
 新田家は、ミヨ子さん、その娘の順子さん、孫の沙樹さん夫妻、ひ孫の茉莉ちゃんの計五人家族。
「そりゃあ、そうだけど」と順子さん。「いまはそんな話をしている場合じゃないでしょ。休むなら休むって早く電話しなきゃなんないし、そのために理由を聞いてるんじゃない。もう、いやんなっちゃう!」
「順子が何か言ってというから、言ったんじゃない。母は体調が悪いので休みます、それでいいじゃない」
「だめなの。こないだ、もし、デイを休むときには、その理由をできるだけ詳しく正直に話してくださいって、デイの方に言われたばかりなんだから。最近、嘘の理由を言う人がいて、トラブルになったらしくて」
「………」
<正直に? 詳しく? 言えるわけないじゃない>
 ミヨ子さんの心の声です。

 半年ほど前、デイサービスの新しい利用者である佐川隆司さん(90歳)がミヨ子さんのとなりの席になりました。
 佐川さんは動作も話し方もスローモーでしたが、洒落た楽しい話をする人でした。
たとえば、大好きなお風呂から出てくると佐川さんは、
「はじめまして。私はね、風呂に入ると実にすっきりして生まれ変わったような気がするほどなんですよ。生まれ変わったから、はじめまして。ボケて顔を忘れちゃって、はじめましてって、言ってるんじゃないですよ」
といって笑顔になるのでした。
ミヨ子さんはデイサービスがたのしみになりました。
そんなある日、デイサービスで昼食の配膳がはじまったとき、室内の大画面のテレビで、若い女性タレントが、「恋をはじめます!」と連呼しました。
すると佐川さんが、少しだけミヨ子さんのほうに顔を向けて、
「ああいうものは、はじめるもんじゃなくて、どうしても避けられずに発生してしまうもんです」
と言いました。ミヨ子さんは、その言葉にどきどきしました。

そして三か月前のこと。
その日ミヨ子さんは、病院受診をした足で、いつもより遅くデイサービスに到着し、テーブルのいつもの席につきました。となりの席の佐川さんは、時間的に入浴中だと思われました。また、お風呂から出てきたら、いつものように、はじめまして、と言って笑顔になるんだろうなあ、と思いながら彼女はお茶を啜っていました。そして間もなく佐川さんがお風呂から出てきました。
彼は、席に着く前にミヨ子さんの顔をちらとみると驚いたような表情になり、黙って席につき、うつむいてしまいます。ミヨ子さんはなにか話しかけたいと思いましたが、彼が怒ったような雰囲気をまとっているため、何も言えず彼女もうつむいてしまいます。
<どうしたんだろう、なにかあったんだろうか>
 ミヨ子さんは目の端で佐川さんのほうを見ると、お茶を持つ彼の手が震えているのがわかり、さらに心配になります。
 そのときです。
 佐川さんが突然立ち上がり、彼の椅子がうしろに倒れ、がたんと音がして、みなが振り向くと、彼の手元の茶碗がテーブル上にころがり、お茶がこぼれています。
「だ、誰だ! 泣かしたのは、誰だ」
 目を三角にして佐川さんは、大声を出しました。と同時にバランスを崩して転びそうになります。
 デイサービスのスタッフたちが素早く歩み寄り、佐川さんを抱えて対応します。
 スタッフが用意した車椅子に乗せられ、近くの静養室へと運ばれる佐川さんの青白い横顔を目で追いながら、ミヨ子さんは気づきます。
<私が誰かに泣かされたと思ったのかも>
 ミヨ子さんはドライアイが悪化すると充血することがあり、この日は少し充血していたのです。みなの目には慣れていることですが、佐川さんは、この日、はじめてミヨ子さんの目が充血しているのを見たと思われました。
 周囲の利用者の人たちは、佐川さんについて「意味不明なことを言ってた」だの「おかしなことを口走っていた」だの「認知症のはじまりなんじゃないか」「あの人、ときどきおかしいことを言う」などとひそひそ話しています。
 それを聞きミヨ子さんは、ちゃんと理由のある言動、行動だと思われる、と言いたい気持ちでいっぱいになりましたが、私が誰かに泣かされたと思ったらしいから、と説明するのは恥ずかしいし、自惚れているように聞こえるのではないかとも思い、なにも言えませんでした。
 その後、佐川さんにミヨ子さんの充血した目を見せた日はなく、穏やかな日々が過ぎました。いつも隣の席で、ときどき言葉を交わし、お風呂上りに「はじめまして」と言って笑顔になる佐川さんと過ごすことにミヨ子さんは幸せを感じました。あの日の充血は、ドライアイによるものだったのだ、泣かされたのではないです、と佐川さんに説明したい気もしましたが、言いませんでした。
 今日もデイサービスの日。また佐川さんと過ごすことができるのが嬉しくて飛び起きたミヨ子さんでしたが、鏡を覗くと目が充血しているのがわかり、休むしかない、と判断したわけです。また佐川さんが誤解して、同じような展開となり、みなのひそひそ話を聞くことになったら嫌だからです。
 いえ、ほんとうは、ミヨ子さんが充血している目を見ても佐川さんがなんの反応もなかったらどうしよう、という思いもあるのです。佐川さんがあのときに大声を出したのは、ミヨ子さんの目の充血とはまったく関係なかった、ということになるのがこわいのです。

「仕事、遅れちゃうでしょ。あたし、自分で電話するから」
 ミヨ子さんが順子さんにいいます。
「ちゃんと電話する? もう電話しないと、送迎の車が出ちゃうわよ。迷惑になるから、じゃ、自分でかけて。早く」
「わかったから、出かけなさいよ」

 順子さんが出かけるのを見届けてから、ミヨ子さんはデイサービスに電話をかけ、「今日はひとりで物思いにふけりたいから休む」と伝えたそうです。嘘の理由ではありません。

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